舞台保存会だより97 平成の舞台修復事業完了
平成の舞台修復事業完了
去る6月7日、梅風閣にて松本深志舞台保存会の総会が開催されました。定例総会です。保存会は平成7年10月に発足しましたので、今年が21年目、総会も21回目となります。
今年は役員改選の年で、これまで二期4年間会長を務められた小池町の関口隆男さんが勇退され、新会長に本町三丁目の石塚栄一さんが推挙選任されました。石塚さんは第五代目の会長ということになります。
また、副会長には加納靖公さんと伊東祐次郎さんが留任され、新たに飯田町2丁目の中藤俊夫さんが選ばれました。他、総務部長に本町5丁目の縣正長さん、会計に博労町の伊藤峯一さん、事務局長には小池町の小林正一さんが選任されました。これが今後2年間の舞台保存会執行部の顔ぶれということになります。
会長に就任した石塚さんは、結成当初から保存会に参与されたベテランです。殊に平成11年の東日本鉄道文化財団による舞台保存への支援事業認定に当たっては、財団との橋渡し役を務められ、保存会による舞台修復事業の端緒を開かれました。
JR東日本鉄道文化財団による事業支援は三年間にわたり総額1,500万円を補助するという大変大きなもので、これによって舞台の修復事業が具体的にスタートしました。その意味で石塚さんは、このたび完了した舞台修復事業の功労者であり、実にふさわしい会長就任といえます。舞台保存会は新会長の下、新たな課題に取り組むことになります。
さて、今回の総会に際しましては、舞台修復の完了を受け、舞台修理審査委員会と舞台修理プロジェクトの解散式が行われました。舞台審査審議委員会と舞台修理プロジェクトは松本深志舞台保存会の付帯組織ですが、このたび平成の舞台修復事業の完了により、この組織は役目を終え、いったん終止符を打つ、ということになったのです。
振り返って申しますと、東日本鉄道文化財団の支援を受け、舞台の修復事業がスタートしましたが、舞台保存会としては具体的にどのような形で舞台を修復したらよいか判りません。修復指導方針があるわけではなく、殊に文化財としての舞台修復については保存会に経験も知識もありませんでした。
修理・修復というと傷んだ部材の補修とか、塗装の塗り替えなどが想定されるところですが、過去の修理では、それまで無かった屋根が取り付けられたり、「うちの舞台は飾りが少なくていけないから…」と言って、由緒も分からない彫刻を取り付けたりといった、首を傾げたくなる修復もありました。嘗てはそれでもよかったのですが、平成13年に松本市の文化財に指定されますと、もはや恣意的な修理はもはや許されません。
そこで考案されたのが、舞台修理審査委員会と舞台修理プロジェクトです。舞台修理・修復にあたり、修理審査委員会により文化財としての修理方針を定め、この修理方針を基に十分な技術を持った地元の職人を修理プロジェクトとして組織し、文化財にふさわしい質の高い修復を行う、というものでした。
審査委員会は松本市文化財審議委員の中川治雄先生を委員長とし、信州大学工学部建築学科の土本俊和先生の指導の下、まず舞台の実測図面を作成し、これを基に修理方針を策定します。
この修理方針に則り具体的な修復工事を行うのが舞台修理プロジェクトチームで、これは宮大工、漆塗り職人、彫金職人など地元の職人集団ですが、会長を古民家再生で全国的に著名な降幡廣信先生に務めていただきました。
舞台修復は一台ごとに三先生にお越しいただいて修理審査委員会を催し、町会の希望や職人の現場の声を聴き、勘案しながら修理方針を決定しました。こうして深志舞台はすべて文化財としてふさわしい修復を遂げることができたわけです。
(最後の修復舞台 宮村町1丁目舞台とその修理審査委員会風景)
舞台修復は松本市の理解も得て順調に進み、平成26年にすべて完了しました。そこでこの度めでたく修理組織の解散式となった次第です。解散式では上記の三先生に加え、組織を運営していただいた増田博志先生、大蔵治さん、早田覚弥さんに感謝状と記念品を贈りました。お三方は舞台修復の実地の功労者です。
増田先生には市議会議員の立場から指導と助言をいただき、修復を円滑に進めていただきました。ベテランの議員さんが指導しているのであれば、市としても補助金の支出は安心して執行できたのではないかと思います。
大蔵さんには審査委員とプロジェクト、さらに町会との調整役を果たしていただきました。上記のように今回の修復事業ではいくつもの組織が動き、噛み合って初めて作業が進みます。しかし組織により舞台修復についての関心はそれぞれで、審査委員会は文化財としての修復を第一とし、プロジェクトは技術者として仕事の良さを追求します。町会は舞台がきちんと修復され、決められた予算内に収支が収まること。また市としては補助金を支出する立場から、書類の完備と、間違いのない事業の執行が関心事だったと思います。
それらの調整を行ったのが大蔵さんで、この難しい仕事を一手に引き受けて熟されました。これはとても大変だったと思います。
また大工さんや塗師さんの見積りを実際の予算で案分し、支払い調整をする。これも大蔵さんの仕事で、業界における十分な知識と信用がないとできません。また補助金があるとはいっても舞台修理の予算は決して潤沢なものではなく、しばしば大蔵さんが業者さんに値切りをしていました。すっかりお任せしましたが、これも厄介な調整だったと思います。
そもそも大蔵さん自身、建築会社の社長さんで、木造が専門ですから自分の会社で舞台修復を請け負ってもよかったはずですが、決して自分の仕事にはしません。しても儲からないと見たのでしょうか。調整はまったくボランティアのご奉仕でした。
そういえば審査委員・プロジェクトは皆、無報酬でなされました。各先生にも大蔵さんにも、交通費すら出ていません。せいぜい舞台修理審査委員会で弁当が出るくらいのものです。
皆さん、舞台という松本の文化を守り伝えていこう、という使命感だけでこの事業に加わっていました。これは本当に尊いことだと思います。
『何で俺はこんな面倒な仕事にかかわっちまったかね。あの平成15年の神道祭の日に早田さんに誘われて、おきな堂でカレーを奢られたのが因果だったね。』
大蔵さんはいつも笑顔で、何度もそうぼやいていました。
このような仕組みを考え、組織を作り上げたのは、飯田町1丁目の早田覚弥さんでした。早田さんが何をヒントにこのような仕組みを考え付いたのか分かりませんが、実によくできた仕掛けでした。仕組みは最後まで機能し、舞台修復はすべて完了しました。もっと単純な舞台修復の在り方も考えられて、当初は批判もありましたが、やはりこの方式の舞台修復事業は成功だったと思います。
諸事情があり、早田さん自身は途中で舞台保存会を去り、事業を最後まで監督することはありませんでした。しかし舞台修復システムは早田さんの創案であり、最後まで何も変わっていません。今にして思えば早田さんの掌中で事は完了していたようにも思います。
早田さんはやはり「都合により」7日の式には出席されませんでした。すでにその任を去り、解散式というようなものに参列する謂れはない、と考えているようです。しかし仕組みを作り、螺子を巻いていったのは早田さんです。舞台修理完了についてはどのように感じているのでしょうか。あらためて感想を聴いてみたいものです。
式後、大蔵さんが挨拶で述べておられましたが、今後は修復された舞台の保管場所、展示施設のことが気に掛かります。殊に現在の舞台庫では、近い将来に予想される熊本以上の大震災には耐えられないでしょう。「舞台修復」は完了しましたが、「舞台保存」は漸くこれからの検討課題と言わなくてはなりません。
それが石塚会長以下新体制の大きな宿題となりましょうか。