舞台保存会だより93 創設者 大野貞夫氏逝去
創設者 大野貞夫氏逝去
去る11月4日、松本深志舞台保存会の元副会長、大野貞夫氏が逝去されました。数え90歳でした。心よりご冥福をお祈りいたします。
大野貞夫さんは松本深志舞台保存会の創設メンバーで、…というより、まさに舞台保存会の発案者、創設者そのものでした。
松本深舞台保存会が設立されたのは平成7年の10月ですが、それに先立つ数年前、大野さんは舞台保存についての活動を始めたようです。ご自身では、平成元年の天神祭りの会議の際に「保存会を結成し、行政に働きかけて舞台の修復を進めることを提起した」と述べていますので、そんな頃でしょう。
やはり保存会の元副会長だった本町1丁目の太田坦さんが、10周年記念誌『舞』の中で次のように回想しています。
(「松本深志舞台保存会10年のあゆみ『舞』」)
(舞台保存会結成10周年を記念し、平成19年5月に刊行された)
『今は亡き林宮司さん・春日総代会長さんを前に、大野尾張屋社長さんが蜿蜒と話をしている。何か例の舞台修理の補助金の件であるは論を俟たない処。
一丁目の舞台を参考にしても車廻りの傷みが激しく、素人衆が舞台を曳く故に起こる現象である。それ故深志神社で補助金を出していただけないかを、博労町の伊藤さん共々お願いしておるのが舞台の会合の時の通り相場であった。
時には声高に一階にも聞こえる程の声量の時もあった。…』
例祭前の「舞台町内合同会議」後の直会の席だと思いますが、情景が目に浮かぶようです。当時大野さんは60代半ばで、気力も精力も旺盛で啖呵も切れましたから、応対は大変でした。博労町の伊藤雄康さんと一緒に迫られたら、本当にやり切れなかったことでしょう。林宮司さん、春日会長さんの困憊した様子がありありと目に浮かびます。
(平成11年 JR東日本文化財団による文化事業指定の認証式)
(前列中央左が有賀元市長 2列目右から2人目が大野さん その手前が林宮司)
(後列左から3番目が伊藤雄康さん 2列目左端は現・遠藤宮司)
何が駆り立てていたのかよく解りませんが、大野さんの舞台保存に寄せる情熱は大変なものでした。
『舞台をなんとかしなけりゃいけない、このままでは松本の舞台は滅びてしまう。』
その一念で16町会横断の舞台保存会を結成し、松本市に働きかけて舞台を市の宝に指定させ、そして舞台修復の筋道をつけたのです。もちろん一人でしたことではありませんが、その中心に立って大声を上げ、目的に向かって組織を引っ張っていったのは大野さんの力で、舞台にとって大野さんは本当に恩人だと思います。
(平成16年 第3回 舞台サミット、飯田町1丁目舞台が芸術館ステージで解体された)
それにしても大野さんがなぜあれほど情熱をもって舞台に関わったのか、正直なところよく解りません。というのは、大野さんは元々松本の街中の人ではなく御養子さんで、したがって子供のころ舞台に乗ったり、お囃子をしたりしたわけではなく、舞台について思い出や懐かしさを持っている人ではないからです。本来なら、舞台については最も無関心でいてよい人でした。
大野さんは松本市岡田の生まれで、戦後、飯田町の老舗染織店『尾張屋』に婿として入り、十何代目かの当主となりました。尾張屋はじっさい西暦1500年代の、安土桃山時代の創業で、市内で最も古い暖簾と云われます。小笠原家に従って飯田から松本に移ってきたとかで、飯田町という町名も尾張屋に由来するとのことでした。
大野さんは現在の信州大学繊維学部・上田蚕糸学校を卒業し、松本の繊維工業試験場に勤めておられたのが縁で、この超老舗・尾張屋に入婿したのですが、元来が岡田の田舎者ですから旦那さま風情とは最も縁遠く、口の悪さは自他ともに認めるところで、「悪態(アクテ)の尾張屋」は自身の授けた仇名でした。
(平成18年 第4回 舞台サミットで挨拶する大野さん) (何か強い調子で学生に指導している)
昔、先輩の話に、松本の人間は語気が荒く、他所の人に親しげに話し掛けると「喧嘩を吹っかけているようだ」と感じられ、誤解を受けるという話を聞きましたが、大野さんの場合まさにその通りでした。
私なども初めて会ったときは、新人の神主だなと思ったらしく、ギョロギョロっと睨まれて、いきなり
「てめえは、どこのもんだ?」
と、叱りつけるように訊かれ、腹が立つより先に怖かったのを覚えています。
ところが、たまたま私も岡田の人間で、そのことを言うとたいそう驚き、「家はどこだ。」と訊いてきます。実は大野さんの実家と私の家は同じ部落で、家も300mと離れておらず、それが判ると、目を丸くして父や祖父の名を訊きます。私の曽祖父は大野さん(旧姓中條)の父君と入魂で、父や祖父のことも覚えていました。納得がいくと漸く相好を崩して昔話をし始めました。以後「コバ、コバ。」と呼んで私を可愛がってくれました。町中に思いがけず親類ができたように感じたのでしょう。私を舞台保存会の事務局に引き入れたのも大野さんです。(少し迷惑でしたが)
(平成19年「日本のまつり」で。畏れ多くも高円宮妃殿下に舞台の説明をする大野さん)
(頼まれもしないのに舞台の彫刻「二十四孝」のこととか教えている。隣で迷惑そうなSP)
いずれにせよ「悪態の尾張屋」で、口のききようは悪かった。人と接するのにお上品な口調で差し障りのない会話から始めることはしません。いきなり荒い語気で相手の中に踏み込んでゆきます。喧嘩でコミュニケーションをとるタイプの人だったと思います。
日本ではダイアローグというものがあまり発達しなかったので、そういうコミュニケーション術が仕方なしに出来たのではないかと思います。
気になる人間がいると、落ち着いて話をするのではなく、初対面から喧嘩を吹っかけて、ひとしきりやりあいます。掴み合いまではしませんが、口でそれに近いことをする。喧嘩すると相手の肚が見えるので、それから仲良くなります。誰にでも通用するわけではありませんが、友達を作るには一番手っ取り早いやり方です。
(平成20年「信州まつもと大歌舞伎 お練り」で。すごい人出でした)
さすがに最近は少なくなりましたが、こうしたタイプの人は昔はよくいて、特に大正生まれの人に多かったように思います。大野さんは大正15年の生まれでした。
大野さんはこの方法で、林宮司や有賀元松本市長らとやりあい、肚を割って舞台のことを話し、舞台保存の道筋をつけました。ひと頃は有賀市長を訪ねて、毎週市長室に通った、と言っていました。
「おい、市長。舞台を早く文化財にしろ。そして修理に補助金を出せ。さもないとじきに舞台は動かなくなって、松本の文化が一つ亡くなっちまうんだぞ。」
そんな調子だったようです。
有賀市長も豪放な人でしたから、この野蛮人のような陳情をむしろ楽しんだことでしょう。この情景も目に見えるようです。
平成13年に深志舞台が松本市の「重要有形民俗文化財」に指定され、さらに修復に際しては他の文化財とは別格の特別な補助金を得られることになったのも、この乱暴で人間臭い交渉術のお蔭で、それは大野さんの功績だと思っています。
大野さんは平成21年まで保存会の副会長を務め、退任しました。気持ちとしては死ぬまで保存会に居たかったのだろうと思いますが、体の具合が悪く、後進に道を譲りました。
体の具合というのは腰で、若いころ痛めた古傷が晩年に至って悪化したようです。戦争の古傷だと言っていました。
大野さんは戦時中志願して予科練に入り、特攻隊員になったそうです。しかしすでに戦争末期、特攻用であれ飛行機はもう残っていませんでした。そこで小型船での特攻、『震洋』による特攻訓練を受けたそうです。震洋というのは所謂モーターボートで、船首に250キロ爆弾を積載し、敵艦船に高速で接近して体当たりするという特攻兵器です。モーターボートというと聞こえがよいが、エンジン付きの木造船でした。金属もなく、安く作りたかったのでしょう。
「貧すれば鈍す」と言いますが、日本海軍も最後にはこんな兵器を開発しなくてはならなかったとは、そぞろ哀れを覚えます。
その訓練中に腰を痛めたのだそうです。そして間もなく終戦、大野さんは出撃することなく帰省しました。その折か、広島を通過し、原爆直後の悲惨な光景を目にしました。その凄惨な情景が忘れられないと語っていました。
大野さんはそのことを言葉に出して言うことは滅多にありませんでしたが、語るときは自らの心の奥に問いかけるようでした。腰の古傷とともに、心の奥にも戦争の傷を負って過ごした70年だったようです。
葬儀の前日、納棺の前にお宅に伺って最後のお別れをさせていただきました。大野さんは2階の和室で寝ていました。もう腰の痛みも消えたのでしょう。心残りのない、穏やかな、とても落ち着いた死顔でした。少し心が安らぎました。
心からご冥福をお祈りいたします。