舞台保存会だより45 中町3丁目舞台の修理始まる
中町3丁目舞台の修復始まる
去る9月26日、深志神社御神前にて魂抜きの神事を行い、中町3丁目舞台の修復が始まりました。
現在、松本深志舞台保存会が中心となり進めている平成の舞台修復事業も、いよいよ大詰めです。残すところは本町4丁目の一台のみとなりました。その最後の一台も来年度修復に入ります。
さて、中町3丁目舞台ですが、深志舞台は16台もありますので、町の人であってもその特徴を述べることは難しいかと思いますが、なかなかユニークで個性的な舞台です。
形態から見た大きな特徴は、前方をやや短く切りつめた2階の唐破風屋根。その屋根に対応するように2階の床面もやや短めに詰め、代わりに正面刎勾欄前に大きな菊花の彫刻があしらわれています。
また、この舞台は重心が高く、腰高なスタイルをしています。数字で示しますと、路面から車体の下部(台輪の下面)までの高さが中町3丁目舞台は67.5㎝。しばしば並べて置かれる隣の中町2丁目舞台は59.5㎝です。約8㎝も高い。両舞台の車高はほぼ同じ5mですから、8㎝とは云え違いが際立ちます。さらに言えば、この2台は深志舞台の中では大型に属する舞台ですが、中規模舞台である伊勢町の2丁目、3丁目舞台などは、この台輪下までの高さが50㎝しかありません。
(蔵シック館前の中町2丁目・3丁目舞台 台輪の高さにご注目)
なぜこのような設計にしたのか解りません。そもそも舞台というものは全長より車高が高く、重心が高くなりがちです。しかし、重心の高い車体は運行上危険ですから、台輪の位置はできるだけ下げて、重心の低い安定したスタイルを目指すものです。ところが、この中町3丁目舞台は実に重心が高い。その点を顧慮してバランスを取るため、2階部分を小さくまとめたのでしょうか。
しかしこの舞台、なかなかカッコいいと思いませんか。腰高で2階部分がコンパクトなそのスタイルは、重厚感というものには欠けますが、軽快で颯爽としたイメージを醸し出します。唐破風屋根もおしゃれです。中町3丁目舞台というのは、洒脱で近代的なスタイルの舞台だと思います。
今回の解体で、2階屋根裏から墨書が現れ、中町3丁目舞台はこれまで伝えられていたのより2年遅く、明治29年の完成であることが判りました。明治中期の舞台です。
(2階天井裏の墨書というか朱墨書 建造当時の町の世話役たち)
松本の深志舞台は江戸後期にほぼ完成しましたが(博労町、大町大黒町、池田町1丁目など)、その姿は一言で言って重厚豪華です。ところが、明治時代を迎えると突然簡素な舞台(本町4,5丁目、伊勢町1丁目)が現れ、大きな舞台は曳かれなくなります。理由はよく分かりません。重い舞台の曳行は道路を傷めるため、曳き回しが禁止されたという説も聞きましたが、本当でしょうか。いずれにせよ、松本旧市内から多くの大型舞台が消えてしまいます。
しかし、明治初期の舞台があまりにも簡素すぎた反省からか、明治の中頃から、重厚さは江戸期に及ばぬものの装飾に重きを置いた、中型の舞台が制作されるようになります。この仲間に入るのが、飯田町1丁目や、伊勢町2丁目、そしてこの中町3丁目舞台になります。中町3丁目舞台というのは、江戸期の重厚な舞台の伝統が一旦途切れ、明治という新しい時代の舞台を模索する中で生まれてきた舞台ではないかと思います。
この明治中期型舞台の特徴の一つに、唐破風屋根があります。元来深志舞台は、というより松本平の舞台やお船の屋根は起り(ムクリ)型で、他の型はありませんでした。ところが明治になって唐破風型が現れてきます。深志舞台では飯田町1丁目、2丁目、そして中町3丁目。
なぜ、唐破風型にしたのか。理由はあくまで想像ですが、江戸期とは違った新しい型の舞台であることを、アピ-ルしたかったのではないでしょうか。
松本の人間は好奇心が強く、新し物好きです。外観上華やかな唐破風屋根は、松本の人々に明治という時代の変化と息吹を感じさせたのではないでしょうか。
それにしても、中町3丁目舞台の唐破風屋根はテリ・ムクリの波が大きく実に優雅です。鳥衾(トリブスマ)も頂部を引き締めてよく映り、惚れ惚れします。舞台に唐破風の伝統もないのに、誰がデザインしたのでしょうか。尤も、今回の改修が決まるまではずっと屋根幌を被っていましたので、その姿を見たのはつい最近のことですが…。
ちなみに、唐破風型屋根の山車は、名古屋を中心とした中京地区に多く見られます。名古屋型、知多型、三河や東海もほとんど唐破風型です。一方、飛騨の屋台はほとんどが屋根面を内側に反らせたテリ型です。
また、今回の解体で判明してきた中町3丁目舞台の特色は、塗りの多様さにあります。いたる所に変り塗があり、手の込んだ仕事がされていました。特に支輪部四周の小屋根には丸いシャボン玉のような模様が施されていることが判明しました。暦年の汚れのために、町の人たちも雨滴の汚れとしか思っていなかった模様が、実は丸い星のような変り塗模様でした。松本漆器組合の碇屋さんは、牡丹を表現しているのではないか、と説を述べていましたが、なんにせよ美しいものです。複雑な塗り仕事が多く、今回は塗師さんが苦労することになりそうです。
その一方で、錺金具が少ない。先だって竣工した伊勢町3丁目舞台では、丁寧な仕事の錺金具が、細かなところまできっちり取り付けられていましたが、中町3丁目舞台は、要所だけ、といった感じ。1階部分などは、殆ど光るものがありません。手摺回りの釘隠しすら省略されています。もしかすると、塗りにお金を掛け過ぎて、金具の分が残らなかったのでしょうか。尤も錺金具は多く付ければいいというものではなく、あくまで装飾ですからバランスと節度が大切で、中町3丁目舞台はその点はっきりしています。
10月14日、清水の松本建労会館で修理審査委員会が開かれました。
例によって、建労会館作業室で解体された部材を検分し、今回はその場で大まかな修理方法まで検討されました。
新発見は2階屋根が「せり上がり式」だったらしいことと、2階の床材に人形を操るためのからくり跡が残されていたことでした。
「せり上がり」は、舞台を運行する際に2階の屋根を下げ、車高を低くして山車の運動性能を良くするための仕組みです。舞台本来の姿は屋根が高く上がった状態ですから、寧ろ「せり下がり」と言う方が表現として正確ですが、それはまあどうでもよろしい。解体してみると舞台2階屋根を支える通し柱が不自然に継がれており、山田棟梁によれば、どうも元々は上下するせり上がり柱だったのではないかと。町会にはそうした伝承はないそうで、今回の解体での発見となりそうです。
構造は違いますが、深志舞台では博労町舞台にその仕組みが残っています。大町大黒町舞台もせり上がりがありますから、江戸時代の大型舞台は多くがこの機構を有していたと考えるべきです。但し、現代では殆んど使われていません。
明治以降の深志舞台でせり上がりが仕組まれた例はなく、この中町3丁目舞台だけに何故あるのか、興味深い問題です。やはり重心の高い車体構造のためでしょうか。カーブなどで腰高な舞台の運動を安定させるため、2階屋根をせり下げる機構を盛り込んだものと想像します。中京地方の唐破風屋根の山車は、みな運行時には2階屋根を下げますから。しかし、実際に運航してみると案外屋根が高いままでも問題なく、結局使わない、ということで通常の高さに固定され、機構自体も忘れ去られたのではないでしょうか。あくまで想像ですが。
(半田亀崎の山車 左…屋根が上がった状態 右…出発前、屋根が下りている)
また、人形からくりの跡は2階の床下から見つかりました。発條(バネ)のような動きをする金属板が床板に埋め込まれていました。具体的にどう動かしていたのか全く解りませんが、おそらく床下の1階からハンドルのようなもので操作すると、2階の人形が手や首を動かす、というような仕掛けだったのでしょう。
(舞台の2階床から見つかった「からくり」用の金属盤と、「せり上がり」用の滑車)
中町3丁目の舞台人形は、どうやら『神主さん』で、かつては舞台の前に進んで「祓い」の仕種をした、と伝えられています。前に進むためのゲージの痕跡は見つかりませんでしたが、後日人形を調べると、首が左右に振れ、右腕は約90度の回転運動をしました。掌は丸い筒を持つ形に握られていましたから、ここに祓い串を持って大麻を振ったものと思われます。ただし、神職の立場から申しますと、祓いの具を片手で振ることは決してありません(必ず両手で持って振ります)ので、人形には出来ても、そういう仕種をしてもらいたくないです。
(中町3丁目の舞台人形『神主さん』 身長110センチメートル
小さな体に大人の狩衣を着せられているので、哀れな姿をしています。)
今回の修復で、この神主さん人形をからくり人形として復活させる計画はありません。少し衣装替えなどして、元どおり積載することになるようです。いずれ「からくり」のこと、復活させるのも面白いと思いますが、それまでは神主さんらしく、笏(シャク)でも持っていてもらおうかな、と私案しています。