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舞台保存会だより139 令和4年天神まつり 久方ぶりの舞台出場

令和4年天神まつり 久方ぶりの舞台出場

 

7月24日・25日、今年も深志神社の例祭・天神まつりが斎行されました。令和2年、3年と各種祭礼行事が中止され、ほぼ殿内神事のみの寂しい例祭でしたが、本年は諸行事を復活させて本来のにぎやかな祭りを取り戻すことを目指して準備を進めました。当然舞台にも出場を願いました。祭に舞台が出るのは令和元年以来三年ぶりです。

(7月24日 例祭当日境内風景)

それにしても令和はその初年も終えぬうちにコロナ禍に見舞われました。後の歴史書では『令和はコロナとともに開けた。』と記されることでしょう。

そういえば令和に限らず、過去の改元期には不穏な事象が多い。昭和は震災の余燼燻ぶる中に開け、たちまち大不況に見舞われます。そして戦争の時代へ。平成は昭和末期の好景気を引き継いで明けたと思いきや、間もなくバブル崩壊。その後のデフレ不況は蜿蜒と続き、現在までもその尾を引きずっています。

そして令和はコロナ禍。世界を席巻したこの新疫病は未だに収まる気配なく、大陸ではウィルスに脳を冒された指導者が、旧世紀並みの侵略戦争を始めました。日本でも昭和以来の政治家襲撃テロが発生します。これはジンクスでしょうか。

(境内風景)

まあそんな情けないことばかり言っていても、何の解決にもなりませんからやめますが、人間も社会も、ひと時も早く正常な、平穏な状態に戻ってほしいものです。多少難しいことがあっても、祭りがあれば神輿を担ぎ、舞台を曳いて皆で楽しむ。そんな世の中を取り戻すことが正常化への第一歩となるのではないでしょうか。

さてそうした中、今年の天神まつりでは14台の舞台が出場し境内を賑わせてくれました。2年間舞台のない祭りを過ごしてきましたが、天神まつりにはやはり舞台です。舞台がないと天神まつりとは呼べません。あらためて舞台のある有難さを感じた二日間でした。


(境内に並ぶ舞台)

今年はほとんどの舞台が7月24日早朝より境内に並びました。本来ですと24日は舞台庫から曳き出された舞台は各町まで曳かれて行き、町の然るべき場所に置かれ、夕方改めて境内に曳き込まれてくるのですが、今年は各町に行くことなく、いきなり境内に置かれました。

コロナ禍により長距離の曳航や曳き回しは避けたいという各町会の思惑から、そのような舞台出場となったようです。多くの町は神社周辺の舞台庫に舞台を蔵していますから、舞台庫から曳き出せば数十メートル移動するだけで舞台を境内に置くことができます。舞台町会の人たちは早朝に舞台を境内に曳き入れ、それから注連縄張りなど町内の祭礼飾りを行なっていました。

(舞台と香具師の出店)

朝から舞台を神社に並べてしまうと、夕方の舞台曳き入れはありません。地域新聞のカメラマンが祭らしい絵が撮れないと言って嘆きます。すると午後4時過ぎに、中町1丁目と、3丁目の舞台が舞台庫から境内に曳き込まれ、漸く祭らしい雰囲気が流れました。ギシギシと舞台の鳴る音、轍の軋み、皆で舞台を押す掛け声が響くと一気に境内が高揚します。

あらためて天神まつりは舞台が空気を醸成し、祭の場を演出する祭りなのだと気づかされました。人もみるみる増えてゆきます。


(中町1丁目舞台の曳き入れ風景)

5時過ぎに神楽殿で芸能の奉納が始まり、拝殿前には行列ができます。夜7時から神事斎行。夕闇が落ちる中、舞台から祭り囃子が聞こえてきました。はなぐるまやらシャガシャリコやら。松本の祭囃子です。境内は祭りの空気とざわめきに満たされました。

今年の宵祭りの人出は凄まじく、まともに境内を歩くこともできないほどです。これほどの人出はコロナ前も含めて記憶にありません。こんなに人が集まっていいのかと心配になりますが、誰もがこんな祭りを待っていたのでしょう。

来年は町中を舞台が動き、町全体を巻き込んだ、より本来の天神まつりにしてゆきたいと願っております。


(中町3丁目舞台の曳き入れ風景)