舞台保存会だより136 深志神社の狛犬たち
深志神社の狛犬たち
今年はコロナ禍で天神まつりでの舞台行事がすべて中止となり、神道祭でも舞台展示がなくなりました。令和2年は舞台の出場がまったくない年となりそうです。甚だ残念ですが仕方ありません。
(神道祭 大名町での舞台展示風景)
舞台について話柄が乏しいところで、神社の狛犬のことでも書いてみようかと思います。
といいますのは、先ごろ某TV局から取材依頼があり、番組で深志神社の狛犬を取り上げたいとのこと。なぜ敢えて此処の狛犬を?と訊きますと、深志神社の狛犬は阿吽が逆になっており、これがどういう理由なのか教えてほしい、といいます。
「…うちの狛犬の阿吽が逆というのは以前から指摘されていますけど、昔からそうなんで理由なんか分かりませんよ。」
「そうかも知れませんが、分かる範囲で結構ですからよろしくお願いします。」
そんな次第で、心許なくもTV取材に応じることとなりました。
(深志神社拝殿前 左右に狛犬が建つ)
深志神社には石造の狛犬が二対あります。一対は拝殿の両側に鎮座するもの。大きな顔で神社にお参りに来る人々を左右から見守っています。
もう一対は神社の正面参道脇に座るもの。大鳥居をくぐって参道を歩くと朱色の第二鳥居の手前に居て、左右から覗き込むような姿勢で参拝者を迎えます。この一対がいわゆる阿吽逆の狛犬です。向かって左に口を開けた阿形、右に口を閉じた吽形と配置されています。
(二の鳥居の前に建つ狛犬)
この狛犬はなかなか古いものです。阿形の台座に刻書があり、『享和元辛酉年二月廿三日全備献納…』と訓めます。享和元年は西暦1801年。江戸時代後期の初め頃でしょうか。
なぜこの年に狛犬が据えられたかといいますと、享和元年は深志神社の御祭神・菅原道真公の御正忌九百年に当たります。道真公が大宰府で薨去されて900年目の式年ということ。深志神社では御正忌祭が斎行されており、狛犬は間違いなく九百年祭の記念事業として彫造・奉納されたものでしょう。
(善光寺道名所図絵(天保14年刊)に載る深志神社境内図)
(小さくて見にくいが「拝殿」とされる建物の手前に狛犬らしきものが見える)
但し当時は今と場所が違い、古い絵図で見ると現在神楽殿の手前のあたりに据えられていました。それが明治32年(1899)の菅公御正忌一千年祭の折に台座を誂え、更に昭和27年(1952)の一千五十年祭の際、現在の場所に移動し据え直されたことが判っています。
(明治32年の深志神社境内図)
(拝殿前に「金属獅子」神楽殿前に「石造獅子」とキャプションが読める)
移設の理由は大祭記念事業として大きな石燈籠が出来、これが神楽殿手前の左右に建てられたためでしょう。狛犬は場所を譲り鳥居近くに移って行きました。新しいモニュメントが建設されて古い築造物が周辺に移動する。神社の境内地利用の中ではよくあることです。
そういえば私も以前提案して、隣の富士浅間神社の狛犬を動かしたことがありました。伊勢町2丁目舞台のためです。畏れ多いこととは思いましたが、関係者の理解を得てうまくいきました。大切なことは無くならないことです。(舞台保存会だより7)
(富士浅間神社の狛犬 典型的な松本型狛犬)
さてこの狛犬ですが、狛犬なのに表情が柔らかく、スレンダーな体つきで、あまり強そうではありませんが親しみが感じられる、実に好もしい一対です。阿形は大きく口を開けますが威圧的ではなく寧ろ笑っているようにも見えます。吽形は少し小首を傾げて、もの想うかのよう。ネコのような雰囲気でとてもかわいい。神社の入り口でこんな狛犬に迎えられたら、参拝者は緊張を解いてホッとするのではないでしょうか。
(阿形狛犬 怖い!と思いますか?)
(吽形狛犬 頭頂部に角があるのが分るだろうか)
ところでTV局からの質問の阿吽が逆の件ですが、これはどういうことかといいますと。
一対の狛犬が置かれる場合、獅子が口を開けた阿形の狛犬は向かって右に、口を閉じた吽形は左に置かれます。これは神社における上位下位とも附合しており、神社では向かって右が上位、左が下位とされますので、狛犬の阿吽と神社の上位下位は合致しているのです。
ところが深志神社のこの狛犬は向かって左に阿形があり、右側に吽形が置かれている。これは間違いではないか、どうしてこうなったのか、という質問です。
(深志神社正面参道)
しかし、その理由ははっきり言って分かりません。斯く斯くの由緒でこう、という伝承があるわけでなく、昔からこの左右で在っただけですから…。但し、石工が間違えたとか、順を知らなかった、置き違えた、ということはありません。仮にも神への奉納物であり、いい加減な製作などあり得ないのです。必ず何か理由があるはずです。
(阿形狛犬 北側)
強いて考察すれば次のような理由が考えられます。
深志神社は世に数少ない西向きのお宮です。(大半の神社は南向き)これは永正元年(1504)深志城の築城に際し、城の辰巳の守護神とすべく、それまで南向きだった社殿を西向きに直したためとされます。社殿が西を向いたといいうことは必然的に参道も西に延びました。これが後に天神馬場となり、天神通りとなって本町通りに直交し、深志神社は松本城下町の一角に組み込まれてゆきます。
ところで社殿が南向きならば狛犬は参道を挟んで東と西に配され、向かって右が東で阿形、左が西に吽形で何の問題もありません。しかし西に延びる参道では狛犬が南北に置かれることになります。左右のセオリーでは南に阿形、北に吽形となりますが、果してそれでよいのでしょうか?
(吽形狛犬 南側)
北と南は『天子南面』という言葉のとおり、尊いものは北に居て南を向く。北が上位です。
また、松本城下町のつくりも北から南への流れで設計されており(本町は1丁目が北、5丁目が南)絵図もすべて北が上で、北が高位となります。深志神社にとってもお城や本町・中町などの主要な氏子はすべて北西方面にあり、自然と北を上位とする感覚があったのでないか。その故に阿形の狛犬を参道の北側に、吽形は南側に置く形となり、結果として左右が本来とは逆になったのではないか。…あくまで推論ですが、如何でしょうか。
確かな理由は解りませんが、この狛犬たち、深志神社の景色に実によく溶け込んでおり、まずは素直に愛でるべき一対と思います。
(拝殿前狛犬 向かって右の阿形)
さてもう一対の狛犬。この狛犬は神社拝殿の両側に置かれているもので阿吽は定石どおり、向かって右に阿形、左に吽形で、社前を見守ります。
この狛犬は極めて個性的な姿をしています。体躯はずんぐり、前肢は円柱のよう、頭部は異常なほど大きくてほぼ体高の半分を占める。ほとんど漫画の世界です。
(拝殿前狛犬 向かって右の吽形)
顔の造形がまた凄い。人間のように平面的で目や鼻はやたらと大きく、後からくっ付けたかのよう。作者は狛犬の原型がライオンであるということを理解していたのでしょうか?秋田の「なまはげ」とか、ある種の化け物をイメージして彫ったのではないかと思います。
そんな狛犬ですが、どこかほのぼのとした柔らかい雰囲気とユーモアが漂うのはなぜでしょうか。恐ろしく不細工なのになんとも言えぬ親しみが湧きます。近ごろ「ぶさ可愛い」という言葉を聞きますが、この狛犬に最もふさわしい形容だと思います。
(拝殿前の狛犬の表情)
この狛犬は昭和3年(1928)、深志神社の縣社昇格を祝い、当時の氏子総代有志が主体となって奉納されたものです。縣社というのは戦前国家神道時代の神社の社格で、県レベルで尊崇する神社というほどの意味です。それまで深志神社は郷社でした。昭和3年は昭和天皇の即位大礼が行われた年で、御大典ご祝儀ということで、社格が上がったのでしょう。
(深志神社南参道の鳥居 左右の柱に「御大典記念」「昇格記念」と刻まれている)
(長沢川沿いの石玉垣)
この時、深志神社では記念の石造物がたくさん造られています。南の石鳥居、長沢川沿いの石玉垣はみな昭和3年の建造です。当時大不況の時代でした。これは御代替り御大典記念とは言うものの、不況で仕事がない石屋さん達が、自から世話人となって寄付を集め、これら石造物を建造奉納したのだそうです。奉祝と仕事づくりを兼ねた事業でした。
深志神社は氏子内に石屋が多く、彼らは十数軒で深睦会という親睦組合のようなものを作っていました。深睦会とは深志神社と親睦を掛け合わせて、神社を中心に寄り合ってゆく会というほどの意味でしょう。現在も2軒だけで残っています。
(縣社昇格記念の奉賛建碑)
南鳥居の近くには縣社昇格記念の寄付者の芳名碑も建ちます。裏面までびっしり寄付者の名が刻まれ、最後に世話人として12名(12軒)の石屋さんの名が刻まれています。
雪洲の篆額、刻字は美しく彫も鮮やかで、三絶ではありませんが二絶の碑かなと感じます。
(記念碑の裏面 世話人として刻まれている石工の名前)
さて狛犬に戻りますと、この狛犬の作者は有賀新吉と小池福太郎という二人の名が台座に刻まれています。小池福太郎は昇格祝い建碑の世話人の中にその名が見えます。宮村の伴石材店さんに聞きましたら、向島で店を構えていた石屋さんで、腕のいい石工だったとのこと。有賀新吉については分りません。並柳あたりの石屋さんでしょうか。
(平成24年 記録的大雪で雪のモニュメントと化した拝殿前の狛犬)
ところで深志神社には、かつてもう一対の狛犬が境内に在りました。これは菅公御正忌一千年祭(明治32年・1899)に町会から奉納されたもので、金属製の狛犬でした。神社の記録帳には「鐵高麗獅子」と記されています。
明治32年の深志神社絵図では拝殿の両側に「金属獅子」と表記がありますから、どうやらブサ可愛い昭和3年の狛犬のあたりに置かれていたようです。そうすると昭和初期には深志神社境内に三対の狛犬が置かれていたことになりましょうか。なんとも豪奢なことです。
(金属製獅子 すぐ後ろは拝殿 ところで宮司さんの隣のオヤジは誰?)
しかしこの金属狛犬は今はもうありません。先の大戦中に供出されました。(昭和18年)神社にはこの時の供出品目録が残っていますが、金属製の燈篭から鉾、鳥居まで境内にある金物は悉くで、大変な量になります。それらはみな氏子・崇敬者からの奉納物で、目録のページを捲ると、供出品の写真と奉納者の名前がすべて記されています。中には残ってなくてよかった、と思うような品もないではありませんが、このような物たちまでが出征しなければならなかった戦争とはいったい何だったのだろうと、複雑な思いに捉われます。
(深志神社に残る供出物記録帳 写真と奉納者名が控えられています)
もう一点、深志神社の狛犬を紹介しましょう。
木製の狛犬です。高さ43㎝。殿内か本殿前に置かれたものと思われます。
(深志神社 木製狛犬)
以前、神職で狛犬の研究家として名高い上杉千郷先生が来訪された折、見てもらいましたら、江戸時代初期の作ではないかと鑑定されました。深志神社には小笠原時代の奉納物がいくつかありますが、それと同時期のものかも知れません。
但し今神社に有るのは阿形一匹だけです。吽形はありません。理由は分かりませんが、彼らは一時期神社を離れたことがあったようで、一匹は戻ってきましたが、もう一匹は帰ってきませんでした。吽形は今どこにいるのか…。
もしそれらしい連れをご存知の方がいたら、神社までご一報いただきたいと思います。
(木製の狛犬 当初は着色されていたのだと思います)
最後にこれは別の神社の狛犬ですが、私の最も好きな一対を紹介したいと思います。
松本市近郊の或る小さなお宮の狛犬です。人の膝丈ほどの小さな狛犬ですが、なんとも古閑な姿をしています。隣にある石灯籠に安永五年(1776)とありますから、おそらく同時の奉納でしょう。石造の狛犬としては極めて古いものです。
(某神社の狛犬 なんとも言えない表情をしています)
宇宙人のような惚けた表情は愉快ですが、意匠化され整ったたてがみは、ヒエログリフやエジプト絵画、古代オリエント彫刻を思わせます。
狛犬は古代メソポタミア文明の獅子像や、エジプトのスフィンクスにその起源を発するといいます。悠久数千年の時間と、遥か2万キロの旅路を経て、この極東の島国の信州の山里にやってきた狛犬であろうかと、観るほどに深い感慨を覚えます。