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舞台保存会だより135 山口権之正の社寺建築

長久寺、長泉寺の天井画で新たな一面を示してくれた山口権之正について、更に情報が寄せられました。長泉寺のお大黒さまからで、旧梓川村の金松寺にやはり山口の天井画があるといいます。さっそく訪ねてみることにしました。(舞台保存会だより129

金松寺は梓川梓の大久保という地区にあります。大久保は緩やかな坂道に整然と立ち並んだ集落で、金松寺の門前町のように連なっています。古そうな集落です。その大久保集落の最奥に、周りを木立に囲まれて金松寺が鎮座していました。

(金松寺鐘楼)

(鐘楼内部 とにかく広い 梵鐘は彫金家・香取正彦作/正彦は香取秀真の子)

石段を登って境内に立つと、手前に古い鐘楼があります。山門を兼ねているようですが、階上で大きな宴を張れそうな巨大な楼です。開放的でスケール感が素晴らしい。文化財になっていてもおかしくない鐘楼ですが、いったいどういう由緒なのでしょうか。

(金松寺本堂と扁額)

しかし本堂は比較的新しく見えました。多分ここ2,30年の建物でしょう。こんなところに明治期の天井画があるのだろうか?と思いつつ、失礼して勝手に上がらせていただくと、聞いていたとおり本堂天井中央の、寺シャンデリアの吊り下げ部分に天井画がありました。

(金松寺本堂内部)

(金松寺本堂中央の天井画)

竜の絵です。山口権之正の署名もはっきり確認できます。小さな絵ながらもこの竜が本堂の守護神として在ることを示しているのでしょう。天井画の周りは放射状に垂木が走って、重いシャンデリアを突き上げるように支えています。

『ここも竜か、山口権之正は本当に竜が好きだったんだなぁ。』

金松寺本堂は堂内も新しい感じで、古いお堂をリニューアルしたようには見えません。そこにどうして明治期のものであるはずの山口の天井画があるのか?これはやはり直接関係者に話を聞かなければと、本堂の裏にある住宅を訪ねました。出てこられたのはご住職で、事情を話して天井画の件を訊ねました。

(山口権之正の署名)

するとやはり現在の本堂は最近のもので、それ以前の本堂が古びて大規模な修復が必要となったため、新築をなさったそうです。(たしか平成13年と伺いましたが…)その際、唯一山口権之正の天井画だけは残し、本堂中央にあのように設置したとのことでした。

元の本堂は明治十年代の建築、棟梁は山口権之正だったそうです。やはり天井画だけでなく本堂を建てていたのでした。しかし近年、築造以来100年以上を経て建物に傷みを生じ、修復も検討したのですが新築することにしたとのこと。明治の本堂は取り壊され、新しい平成の本堂が建ちました。残念ながら現在の金松寺は山口権之正の作ではなくなりました。

(『梓川村誌』に載る金松寺全景)

後日、梓川村誌などで元の金松寺の写真を確認しましたが、寄棟造りの大きな民家風屋根で、今の本堂とはだいぶ景色の違った建物だったようです。

金松寺は由緒の古い寺です。焼失により開基のことは不分明と云いますが、或いは平安時代に遡りましょうか。往古は真言宗でしたが、鎌倉時代に夢窓正覚国師により臨済の寺に改められ、更に室町時代に曹洞宗に改まりました。戦国時代には武田信玄の庇護も受けています。

武田氏滅亡の後、小笠原貞慶が金松寺に旧臣達を集め、府中回復を図りました。(天正10年〔1582〕3月)しかしこの時は願いを果たせず、本能寺の変後(7月)、徳川家康の後ろ盾を得て深志府中を回復しています。

そのように由緒ある金松寺ですが、明治の廃仏毀釈により廃寺となります。寺はいったん堂宇とも完全に失われました。しかし廃仏の緩和後、地元の崇敬者の尽力により現在の場所に再建されます(明治18年落成)。それが山口権之正による金松寺本堂だったようです。

(もとの金松寺本堂 『金松寺史』より)

梓川対岸の波田地区では名刹・若澤寺が破却され、そのまま無くなってしまいましたが、梓川地区では金松寺が復活し、更に恭倹寺など新しい寺まで創建されます。その建築には共に山口が関わりました。

(山口権之正が建設した恭倹寺鐘楼 もとの若澤寺鐘楼の部材を利用した)

廃仏毀釈は明治政府による文化大革命です。地域の差もありますが松本藩などは非常に烈しく、多くの仏閣が取り壊され仏像仏具が破却されました。また明治初年に出された神仏分離令により、仏教と神道は二つに引き裂かれ、それぞれが別の道を歩むことになります。

その事の是非は簡単には測れませんが、いずれにせよ新政府の意向により伝統的宗教秩序の破壊・改変が行われたわけで、単なる物質的な毀損では済まなかったはずです。

もちろん廃仏により日本仏教が滅亡したわけではなく、金松寺のように復活した寺も多くありましたから、現在では一時的な破壊行為として教科書に載るだけですが、日本人の精神に及ぼした影響は相当に深かったのではないでしょうか。

宗教的価値観の毀壊は、しばしば道徳的価値観をも破壊します。明治から昭和にかけての日本人の道徳力の低下、国家倫理の崩壊は、明治初期の廃仏運動に起因しているのではないかと考えます。

(金松寺本堂天井画)

「うちではあの天井画が一つ残っているだけだけど、確かこの先のお宮さんは山口さんの造ったものだと聞いているよ。」

金松寺の住職は私が山口権之正を追って訪ねてきたことを知ると、そう教えてくれました。

それは大久保から東へ下った、倭(ヤマト)の近くの杏(カラモモ)という集落にある神社だといいます。お礼を言って寺を辞し、松本に帰る道すがら訪ねてみると、梓川支所近くの県道から少し南に入ったところに、日枝社という小さな神社がありました。ここのようです。

(杏・日枝社の全景)

外観はごく普通のお社。正面の拝殿には特に山口権之正を感じさせる造りや彫刻はありません。彫刻や装飾を最も施すのは本殿ですが、御本殿は拝殿から続く蔽い屋に包まれており、観ることは叶いませんでした。

後日宮司さんに電話で聞くと、やはり本殿は蔽い屋の中で、次に社殿の開くのは例祭時で四月末とのこと。残念ですが暫し待つことにしました。

(杏・日枝社の本殿)

昨年の四月末、例祭助勤の合間を縫って杏・日枝社を訪ねました。昼近くに行くと午後からの祭礼らしく、宮司さんはまだ見えておらず、二人の総代さんが祭りの準備をしていました。事情を話して上げてもらい、その本殿を拝見することができました。

(日枝社本殿の彫刻)

日枝社の御本殿は正面を重厚な唐破風屋根で飾った一間社流造の立派な社殿でした。彫刻もたくさん施されています。当初は野外に建っていたと思われますが、芸術的な貴重さから拝殿続きの蔽い屋で囲い、保管したのでしょう。山口権之正の作に相違ないと思います。

彫刻は霊亀、唐獅子、竜、鶴など。御扉の両側は『葡萄リス』でとても素敵な彫刻。六九町舞台にも葡萄リスが彫られていましたが、山口の好きな題材だったのでしょう。脇障子には『滝に虎』が彫られています。

(日枝社本殿彫刻『葡萄リス』)

( 同 脇障子彫刻『滝に虎』)

山口権之正はオーソドックスな霊獣彫刻が得意で、仙人など人物彫刻は彫りません。杏日枝社もその通りで、伝統的な図柄をきちんと彫り込んでゆく、飛騨の匠としての彼の姿勢がうかがえます。

後日、梓川村誌で調べますと、明治30年(1897)の建造だそうです。前の本殿が傷んだため、同年2月に建て替えを始めました。

『明治三十年十二月末完成、大工棟梁飛騨匠山口権造作である。… …周りの彫刻から正に絢爛豪華と言うべきか。建築費総額六八二円、うち大工作料一〇三円』と記録されています。

山口権之正による本格的な神社本殿建築が確認できたのはこれが初めてで、感慨深いものがあります。

(杏・日枝社の殿内)

その後、塩尻洗馬長興寺の庫裡がやはり山口権之正の作であることが判明しました。長興寺庫裡は明治41年(1908)の長光寺火災の後建造されたといいますから、明治末の建築ということになります。中町2丁目舞台が明治45年の建造で、知られている限り山口権之正最後の仕事です。すると棟梁として晩年の仕事ということになるのでしょう。

(名刹 長興寺)

(長興寺庫裡)

木造三階建の巨大な建物で、さまざまな仏事や修行僧の宿泊、一時は本堂としても使われたそうです。また地域の会議や講演会場としても使用され、昭和の初めには柳田国男が重要な民俗学講演を行った場所としても知られています。

この庫裡は老朽化と耐震不足のため解体されることととなりました。耐震改修も検討したそうですが難しく、結局解体して新築することに決まったそうです。その事前調査の中で図面が見つかり、棟梁が山口権之正と判明しました。山口は必ず図面に署名を入れています。

2019/ 7/ 4 12:33

(長興寺庫裡の図面)

2019/ 7/ 4 12:33

(山口権之正の署名 「伽藍師」と名乗っている)

昨年8月、解体前の庫裡を見に行きましたが、すでに周りは工事用の養生がされており、建物の中を見ることはできませんでした。しかし広壮なその姿は外観を見るだけでも圧倒されます。周囲を廻ると本堂との間に半地下のような通路があり、その奥には泉水のある見事な庭園が築かれていました。名勝・長興寺庭園です。庫裡は裏側にも広い回廊が廻り、そこからこの庭園が楽しめます。京都の由緒ある門跡寺院のような風情です。

(長興寺庭園とその方面から見た庫裡)

解体の決定は耐震不足が主因だそうです。確かに大広間を擁する古い木造建築は、どう考えても現代の耐震基準を満たさないでしょう。そうは言ってもこれほど見事な建築が、現代の基準に合わないという理由だけで取り壊されなくてはならないとは、實に残念なことです。

その後、解体された庫裡の梁に山口権之正の名が確認されたと聞きました。見に行く予定でしたが、なかなか都合が合わず、そのうちコロナが始まってしまい、未だ果たしていません。行けば既に新しい庫裡が建っているはずですが、敢えて見たくないような気もします。

(長興寺風景)

いずれにせよ山口権之正の仕事がまた一つ見つかったこと。しかもそれがあのように見事な庫裡と確認できたことは、彼の業績を追う者として嬉しいかぎりです。