舞台保存会だより130 荒町お船の彫刻について
年の瀬を迎え、令和元年もはや暮れようとしています。2019年は平成と令和という二つの時代を渉ったわけですが、改元のほかにも多事重なり、なんだかあっという間に過ぎ去ってゆくように感じます。来年はオリンピックもありますし、更にスピ-ドアップして駆け抜けるのでしょうか。
さて、平成から令和に移行するこの年に、松本周辺で2台の山車が修復を遂げました。安曇野市三郷の「一日市場舞台」と松本市里山辺「荒町のお船」です。
一日市場の舞台は明治36年(1903)の建造。松本の舞台よりやや小ぶりながら、二十四孝図などの彫刻が多く、松本舞台の伝統をひく見事な舞台です。建築から百年以上を経ていますので、かねてから修復を考えていたようですが、令和を迎えた今年修復を完了しました。
この舞台については以前紹介しています。(舞台保存会だより91)
一方、里山辺荒町のお船は、須々岐水神社例祭に曳かれる九艘のお船の中の一つです。由緒は極めて古く、躯体の建造は明和4年(1767)と伝えられ、その後幾たびか改修・改装を経て、明治中期から大正にかけて現在の姿に完成されたといいます。荒町のお船は彫刻が多く、九艘の中でも特に充実したお船です。
ところで、たまたま同じ年に改修竣工されたこの二つの山車ですが、いくつか共通点があります。一つは同じ大工業者により改修工事がなされたこと。すなわち清水の山田工務店が中心になって工事を行いました。これは深志舞台の平成の舞台改修事業を行った舞台修理プロジェクトチームが、今も機能しているということのようです。
もう一つはどちらの山車も制作に清水虎吉が関わり、彫刻を入れていることです。虎吉ゆかりの2台の山車が、その旧居に近い清水で百数十年ぶりの改修を行ったことになります。
清水虎吉についてはこれまでもたびたび登場願いましたが、きちんと紹介したことはなかったかも知れません。あらためて紹介しますと、
清水虎吉(号は東渓、好古齋、虎巧斎など)安政3年(1856)里山辺上金井の酒造業を営む大和八右衛門の次男として生まれました。安政3年というと隣町湯ノ原町で立川富重・富種兄弟による新しいお船・湯ノ原町お船が建造されていた当にその頃です。それが機縁であったのでしょうか、虎吉少年は須々岐水神社のお船、特にその彫刻に強く心を動かされ、立川流の彫刻師になることを志します。諏訪の立川専四郎富種(啄斎)に弟子入りし、憧れの師の下で修業、やがて立川流の彫師として自立、立川東渓を名乗りました。東渓は故郷の川・薄川に由来します。
明治14年、縁あって清水の善昌寺・清水家に入婿。住職として寺を継ぐことを期待されますが、虎吉は初志を貫いて社寺彫刻師の道を進み、善昌寺門前に彫刻工房「好古齋」の札を掲げました。立川流彫刻師としての彼の盛名は高く、松本・安曇はもとより諏訪や飛騨にも及びます。息子たちも彫刻の道に進み、彫刻師として一家を成しました。
大正2年(1913)没・57歳。墓は善昌寺境内に在ります。(坂下与八著「富種師弟作品集」)
(松本市清水の善昌寺) (女鳥羽川沿いの通り 好古齋工房が在った辺り)
さて、この度の荒町お船の彫刻についてですが、このお船は来歴が古く何度も手が加わっているので一概にすることはできませんが、主な彫刻は虎吉の作とされます。(一部は大正時代に息子の湧水により入れられた彫刻があります。)
中でも二階勾欄を四隅で支える力神の彫刻と、一階窓部分に彫り描かれた四枚の大判彫刻は、たいへん見事なものです。
力神は大町大黒町舞台や半田亀崎の力神車など、多くの立川流山車に搭載されて代表的な山車彫刻です。山車を曳くとは曳行にせよ旋回にせよありったけの力仕事ですから、力神は最も相応しいアイテムと言えるでしょう。二階の勾欄を支える力神というのは珍しいタイプですが、よく目立ちますし力士らしい力強さも申し分なく、実に印象深い力神です。
しかし何といっても素晴らしいのは一階窓部分の大盤彫刻です。平安時代の武士を描いた歴史画彫刻。画面の隅々まで精緻に彫り込まれた大変な作品で、単なる山車彫刻の域を超え、美術工芸品、芸術作品を感じさせます。
四つの場面は『石橋山の合戦』『富士川の合戦』『坂田公時』『渡辺綱』。どれも隅々まで見どころ溢れた傑作で、見始めるとお船の前から動けなくなってしまいます。
伊豆に流されていた源頼朝は以仁王の令旨に応じ旗挙げし、平氏の政権に反旗を掲げますが、石橋山の合戦で大庭景親の大軍に敗れ山中に逃げ込みます。追手から逃れようと椙山の洞に身を潜める頼朝。そこへ来たのが景親軍の武将・梶原景時で、彼は洞の内に頼朝が隠れていることを察すると、却って洞の口に蜘蛛の巣を張るなどして「ここに頼朝はいない」味方を欺きます。景時は秘かに頼朝に心を寄せ、源氏の再興に期待していたのでした。
九死に一生を得た頼朝は真鶴から安房に逃れ再起を期します。後に梶原景時は頼朝の御家人となり、重用され初期の鎌倉幕府を差配する中心人物となってゆきます。
絶体絶命の危機に陥り頼朝の緊張した表情、弓を使い窖の口を搔き払うようにして味方を瞞着する景時、騙される武士。緊張と弛緩が入り交じり、ユーモアも漂う楽しい画面です。
説明する必要もありません。金太郎さんです。
隣で金太郎を見つめるのは彼の母親ですが、その表情がとても印象的です。
金時の母親については、諸説ありますが一説によれば山姥であったとされます。山姥は或は山窩(サンカ)とも同一視され、かつて日本の山に棲んでいた浮遊民で、縄文時代からの先住民族とも考えられる人々です。蝦夷やアイヌと関係があるのかないのか…。いずれにせよ彼らは農業民族ではなく、漁猟や採集を主として山中に棲む、日本人とは別種族でした。当然交流もありません。ただ山窩の女性にはエクセントリックな美しさがあり、人を魅したそうです。
山姥・山窩は自然山河の精の下にあった人たちで、おそらく日本人よりもクマやシカなどとコミュニケーションを取ることが容易な人たちだったのでしょう。金太郎もそうした山窩の血を引き、そのことが特異な英傑として平安の世に持て囃されたのかと思われます。
金太郎に注ぐ母親の眼差しは、愛情とともに子の将来に対する不安や恐れ、更にずっと虐げられてきたであろう山姥・山窩の運命に対する諦念のようのものを漂わせていて、心に深く迫るものがあります。
渡辺の綱は源融の子孫で、源頼光の家来・四天王の筆頭。頼光ととも鬼退治で勇名を馳せました。
この彫刻は若い女房に化けた鬼・茨木童子と出会う場面です。
或る夜、頼光の命を帯びた渡辺綱が馬で一条大宮に向かっていると、一条戻橋のたもとに若い女が一人、綱に送ってほしいと頼みます。夜のこととて承知し、馬に同乗させてゆくと、女は突如化けの皮を剥がし、鬼の姿になって綱の髻を掴んで空中に舞い上がります。すると流石の綱は頼光から預かった源氏伝来の名刀「髭切」を抜いて、鬼の腕を斬り落とし難を逃れました。このあと斬られた腕を取り返すため、鬼が再び化けて綱のもとを訪れるエピソードも続きます。
鬼と闘う渡辺綱は勇壮で、錦絵にも屡々描かれたりしていますが、鬼と格闘する場面が多く、女と見合う姿は稀です。
彫刻は一条戻り橋で、声を掛けた女の顔を綱が覗き込む場面です。被り物を上げて顔を見せる鬼女、馬上で身をひねり品定めするように女を覗き込む綱。歌舞伎の一場面を見るような見事な出会いのシーン。緊張感とともに、どこかユーモアも漂います。
夜、美女に送ってほしいと頼まれれば、怪しいと思いつつも男は断れません。あわよくば…、などと心が騒ぎます。男女の心の機微が絡み合って、なんとも得も言われぬ場面です。
ちょうど一年前、これら荒町お船の彫刻は山田工務店に在りました。11月の末でしたが、別件でたまたま工務店を訪れると、作業場の中央にお船の車体が組み上げられ、最終の組み立て作業が行われていました。大盤彫刻はまだ取り付かずに周りに並べてあります。用件も忘れて眺め入っていると、山田棟梁がやってきて話しかけてくれました。
「いやぁ、今二つ一緒に来ちゃって、とんでもないことになってるだよ。」
「二つって、荒町と一日市場?」
「そーそー、この荒町を早く終わらせて送り出さなきゃ。一日市場と部材が混ざっちゃったらえらいことだわね。ハハハッ。それ、そっちが一日市場。」と、棚の方を指差します。虎吉の彫刻も重なるようにして棚に置かれていました。
棟梁は力神が特殊の仕方で本体に取り付けられていたことなど指摘し、その道のプロしか解らない建造時の大工の苦労などを推察して楽しそうに話してくれました。
私がやはり4枚の大盤彫刻に心奪われているのを見ると、棟梁がふと、こんなことを言いました。
「その彫刻は銘がないだいね。」
「銘がない?…これは虎吉のはずだけど、好古齋とか、東渓とか、そういう銘が入っていないということですか?」
「そう、その力神や他の彫刻もそうだけど、このお船のには銘がないね。表も裏もよく見たけど…ない。それだけの彫刻なら普通はあるもんだがね。」
棟梁のその言葉を聞いた時、なにか知らぬ強い衝撃を感じました。
『銘がない』それはよくあることですし、銘のない彫刻などいくらでもあります。しかし荒町の彫刻に銘がない、とは異常な情報と直感しました。心の裡に有りながら忘れていた、何かとても重要な或ることを想い出したように感じ、尚しばらく彫刻を見つめていました。