舞台保存会だより128 令和の例祭に向けて 幟の新調
令和の例祭に向けて 幟の新調
深志神社例祭・天神まつりが近づいてきました。今年は昨年と逆で、なかなか気温も上がりません。夏らしくない夏ですが祭りはやってきます。天神まつりは、やはり暑い夏であってほしいと願います。
去る5日に舞台町会合同会議が開かれ、舞台の運行が決まりました。24日の舞台マップを添付しておきます。
(天神まつり舞台マップ 24日は赤いアイコンの場所に舞台が配置されます)
さて舞台とは直接関係ありませんが、今年の例祭では深志神社の祭礼幟が更新されることになりましたので、そのことをお伝えしたいと思います。
祭礼幟というものはどこの神社でも例祭の時に社前や参道の入り口、また氏子町でも掲げられ、祭りであることを示す標です。幟が掲げられるとその神社・地区は祭であり、さあお参りに来なさいよ、と誘われるように感じます。
神社というものは大抵こんもりとした社叢に囲まれ、一見するとお宮なのか、ただの森なのか見分けがつきません。しかしその杜の前に白い旗がなびくと、ああ、あそこは神社なのだ、今日はお祭りなのだと分かり、自然と気分が高揚するものです。
深志神社にはこの祭礼幟が三本(三対)あります。正面参道に二対、梅風閣前の南参道に一対です。
参道の中央に建つ幟は生地の丈が14mもある巨大なもので、当に威風を払って旗を靡かせます。この幟は、文政元年(1818)の夏に高名な儒学者にして書家・亀田鵬斎により揮毫されたものです。
『一國報宮村之神功』『萬世仰菅公之威徳』
亀田鵬斎(1752~1826)は江戸の中期に独自の儒学思想を説き、門人千人と言われた大儒でしたが、寛政異学の禁により閉門を余儀なくされました。江戸での教育を禁じられた彼は地方へ旅に出ます。目指すは越後出雲崎に庵を構える良寛のもと。二人は書を通じてつながる親友でした。おそらくその途次で松本にも立ち寄っていたのではないかと思われます。揮毫はその折でしょうか。ただ、鵬斎が松本に立ち寄ったという確かな記録は確認できていません。高美甚左衛門日記にも見えないそうです。しかし亀田鵬斎ほどのビッグネームが松本を訪れていたとしたら、これはちょっとした事件ですし、その揮毫した幟が深志神社に奉納され伝えられたということは神社にとってもたいへんに名誉なことです。なんとか究明してみたいと思っています。
この幟は昭和41年に染め直し再調されていますが、近年は生地の経年から傷みが激しく、毎年修繕を繰り返すありさまでした。今回再び染め直し調製されます。
もう一対はやはり正面参道の神楽殿手前に建つもの。昭和27年、里山辺・須々岐水神社宮司上條義守翁の揮毫です。
『健命神威垂不朽』『菅公霊徳播無窮』
上條義守は神職としてより日本画家として有名で、屡々回顧展も開かれます。書や歌道にも長じており、文人と称することのできる人ではなかったかと思います。27年当時は四柱神社の宮司でもありました。
昭和27年(1952)は菅公御正忌1050年の年で、その記念と思われます。幟は巾上と清水の両地区により奉納されました。この二つの地区は深志神社氏子の中で西と東の外れです。両地区が特別な奉納を行うことについては、深志神社を廻る氏子町内の古い抗争の歴史があるのですが、それについてはまた別の機会に…。
この幟は平成19年に再調・染め直しされました。
もう一つの幟は神社の南参道口に建ちます。
深志神社の南参道は小さな神明鳥居が建ち、すぐ前を長沢川が流れています。あまり参道らしくはなく通路といった感じ。ただ南北朝時代の創建当初、神社は南向きであったとされますので、当時は南が正面参道だったはずです。本殿の位置は正確に分かりませんが、神社に向かうと境内の手前に長沢川が流れていて、おそらく橋が架かり、その先に参道が続いて拝殿本殿が鎮座する、理想的な社殿配置ではなかったかと思われます。
(深志神社南参道 神明鳥居は昭和3年 御大典記念で建立されたもの)
その南参道に建つ幟は『黄樹』という号の書家の揮毫になるもの。
『瑞雲浮瓊樹』『喜氣繞社頭』
めでたい雲が美しい樹の上に浮かび、喜びに満ちた気が神社を廻っている。そんな意味でしょう。祭礼の盛儀を讃えた文言です。
この幟は『己亥春陽』とありますので、おそらく明治32年(1899)の奉納、菅公御正忌一千年祭の記念と思われます。明治32年は今からちょうど120年前。幕尻に『長澤中建之』とあり、これは深志神社南の長沢地区七町会の奉賛により建てられたということです。
(南参道に掲げられる黄樹の幟 黄樹なる書家については不明です)
この幟自体はさすがに120年前ということはありませんが、それにしても経年でくたびれ、限界を迎えていました。染屋さんに見せると、生地を一瞥しただけで「あ、これは駄目ですね。」と言われたものです。そこで御代替りの今年を期して新調することとなりました。
新調に際し、正面参道の幟のように染め直して再調するか、それとも内容も一新して新しい幟を作るか検討しました。その結果、この度は染め直しせず全く新調することになりました。改元記念でもあり、やはりここはまっさらの幟を揚げたい。黄樹の幟には120年の感謝を捧げ、お蔵入りしてもらいます。
新しい幟の揮毫は神社役員とも相談のうえ、岡田松岡の書家・大澤逸山氏に依頼しました。逸山氏は現在61歳。日展会友で極めて精力的に活動されています。書家としての活躍もさることながら教育者としても有名で、松本蟻ケ崎高校の書道部顧問といえば思い当たる人も多いでしょう。深志神社でも平成26年の『天満宮御鎮座400年祭』では、逸山氏率いる書道部の皆さんに拝殿前で書道パフォーマンスを演じてもらいました。
(天満宮400年祭 蟻ケ崎高校書道部の皆さんによる書道パフォーマンス)
逸山氏は依頼に二つ返事で快く引き受けてくださり、7月11日深志斎館二階の広間で幟の生地に揮毫を行いました。
「周(アマネ)く山川を祠(マツ)り 幽(ハル)かに乾坤(ケンコン)に通(カヨ)わす」
意味としては、「すべての山川を祀り (神々の御心を)天地に行き渡らせる」というほどの言葉になります。出典は「日本書紀 巻二十二・推古天皇」の中にある天皇の詔(ミコトノリ=天皇の言葉・声明)です。その大意は、
『推古天皇十五年の条 二月、壬生部を定めたときの詔
朕(推古天皇)はこのように伝え聞いている。
昔、皇祖の天皇たちが世を治めた時、祖先は天地に拝跪して厚く神祇を祀った。
『山川の神を祀り、(神々の)御心を天地に行き渡らせた。』
それにより陰陽による季節は順調にめぐり、諸々の造化(生産)は進んだのである。
今自分が天皇として在るこの時代、神祇を祀ることに怠りがあってはならない。
と言って、皇太子(聖徳太子)を始め群臣を率いて神祇を祭った。』
推古天皇(在位593~628)といえば古代の女性天皇ですが、それ以上のイメージは浮かびにくいのではないでしょうか。浮かぶとすれば聖徳太子の時代です。
聖徳太子は推古天皇の即位とともに摂政に任じられ、政務を取り仕切りました。太子は日本古代最大の改革者です。それまで豪族の集合体に過ぎなかった倭国を、仮にも天皇を中心とする統一国家に仕立て上げ、官制を整え国家理念を定め、外交を行いました。日本という国号もこの時代に定められたとも言われますし、東海に浮かぶ小さな島国を、独立した国家となすべく改革を行ったのが聖徳太子です。
推古11年(603)に冠位十二階の制を定め、12年(604)には十七条憲法を制定。そしてこの詔の年・15年(607)には遣隋使の派遣が行なわれます。そうした変革の時代の中での推古天皇の言葉には特別な意味があります。
天皇はこうした改革に反対はしなかったでしょうが、改革に流されることには危機感を持っていたのだと思います。また聖徳太子が、十七条憲法の二条で「三宝(仏教)を敬え」と告げながら、古来からの神祇に触れなかったことには危惧を感じていたのではないでしょうか。
国は新しい制度・思想を入れるとしても、基礎として忘れてはならないものは国の山川とその中に遍在する神々への祈りである。肇国の昔より続いてきた神祇への祭りを怠ってはならない。それこそが国の大本である。…それが推古天皇の意思でしょう。
この年の秋、小野妹子を正使とする遣隋使が国書を携え派遣されます。かの有名な「日出ル処ノ天子、日没スル処ノ天子ニ書ヲ致ス、恙無シヤ」ですが、これはほぼ日本の独立宣言ということでしょう。聖徳太子がこの書簡で煬帝の怒りを買うことを知らなかったはずがありません。敢えて対等の書簡を送り、国の独立を伝えたのでしょう。大胆な人です。
しかし、太子がこのように大胆な政治改革や外交をできたのも、やはりバックボーンとして推古天皇の保守的な精神性があったからではないかと思います。
以来日本は中国の冊封国ではなく、独立した国として存立し、それは1945年まで続きます。