舞台保存会だより126 昭和の舞台
昭和の舞台
前回のたよりでも取りあげましたが、昭和になって4台の舞台が新たに建造されました。本町1丁目、2丁目、3丁目の舞台、それと中町1丁目舞台です。それぞれ竣工は本町2丁目と中町1丁目が昭和9年、本町3丁目は昭和13年、本町1丁目が昭和14年です。
わずか5年の間に4台の舞台が新たに建造されるというのは、舞台の創成期は知らず空前のことで、実に盛況なことでした。
深志神社氏子の南深志16台の舞台についてその建造時期を見ると、江戸時代が1台(博労町)、明治時代が11台、昭和が4台となります。なぜか大正期には1台もありません。明治45年の中町2丁目舞台を最後に、昭和9年まで20年以上新しい舞台は建造されませんでした。大正から昭和初期にかけて舞台建設の空白期間があり、昭和10年前後に突如ブーム到来。これはどういうことなのでしょうか?
(蔵シック館前に並んだ中町の舞台 向かって左から1丁目、2丁目、3丁目)
そもそも昭和9年から14年というと、昭和6年の満州事変勃発から日中戦争を経て16年の太平洋戦争になだれ込んでゆく暗いイメージの時代です。良い印象はありません。
昭和7年/五・一五事件、昭和8年/国際連盟脱退、昭和9年/ワシントン・ロンドン軍縮条約破棄、昭和10年/天皇機関説問題、昭和11年/二・二六事件、昭和12年/盧溝橋事件・支那事変、昭和13年/日中戦争拡大…。
10年に一度でも勘弁願いたい事件が毎年のように続き、国内はテロ、国際的には孤立化・戦争で、本当にイヤな時代だと思います。
こんな時代に舞台なんぞ作って、松本の町衆はいったい何を考えていたのだろうと呆れるばかりですが、戦前は意外に明るかったという人もいます。
エッセイストの山本夏彦氏(大正4年生まれ・1915~2002)によれば、その時代は決して暗くなかった。寧ろ満州事変が起こって世間は明るくなったといいます。(『戦前』という時代)どういうことか?
大陸で戦争が起こり、ために軍事特需があり、景気が戻りはじめる。不況に喘いでいた日本経済にとって、事の理非は兎も角、事変は偉大なカンフル剤でした。
昭和という時代は不況で開けます。大正末の大震災、その復興も半ばで昭和恐慌が訪れる。これは本当に凄まじい不況で、バブル崩壊後の平成不況などまるで比較にならない。『大学は出たけれど』就職率は30%台という。昭和4,5年頃が奈落でしょうか。
それが満州事変を契機に急激な回復を遂げます。特需により仕事が出来、社会に金が動き、経済の歯車が回りはじめる。また軍事事件が起こると軍に臨時予算が付きますから、軍隊の関連に金が流れます。松本は五十連隊を擁する軍都でもありましたから、事変の発生は直接的な刺激にもなったのではないでしょうか。満州事変が起こって国が明るくなったというのはそういう意味のはずです。
かつて五十連隊の行軍や運輸は、現在信州大学の連隊から和泉町・東町を下り、大橋を渡って中町1丁目の交差点を曲がり、中町・本町を通って駅に動いて行ったといいます。江戸時代と変わらず東町・中町・本町はまさに松本の大動脈で、人と物資が行き交いました。中町1丁目など今でこそ古風な蔵の姿を残した観光客の漫歩道ですが、当時は連隊に物資を納める多くの問屋が軒を連ねていたといいます。軍需景気の直接出やすい町でした。
かくして満州事変を契機に景気は急激な回復をみせます。そして昭和8年には戦前における経済のピークを迎える。8年は戦後までその物価水準が国の指標となったそうで、近ごろの人がバブル時代を懐かしむように「あの頃は景気がよかった。」と振り返ったのが、昭和8年なのだそうです。
4台の昭和の舞台はちょうどこの時期に建造され、或いは計画されました。明らかに好景気に刺激されて舞台建造に及んだものと考えられます。本町2丁目か中町か、その辺の町で、
「おう、少しは景気も戻ってきたようだし、そろそろ舞台をなんとかするじゃあねえか。松本の商人たるものが、いつまでもあんな半端な舞台曳いてちゃあ、笑われるぞ。」
そんな会話が交わされたのかも知れません。渋る人もいたでしょうが、「やるぞ。」という人間が3人もいれば事は進むものです。
中町1丁目舞台については、これまであまり触れたことがありませんでしたが、この機会に紹介したいと思います。些か謎の多い舞台です。昭和の建造なのに大工棟梁以下制作者が分からない。建設経緯も不明。またこの舞台が三代目ということですが、初代、二代目の行方が分からない。昭和9年までどんな舞台を曳き、どのような舞台行事をしていたのか、まったく分かっていないのです。
ただ舞台人形はたいへんに古く、由緒が感じられます。能の「猩猩(ショウジョウ)」です。平成19年の舞台修復の折この人形も修復したのですが、おそらく江戸中期に遡るもので、深志舞台中、最古の人形とのことでした。表情がよく、全体の出来栄えも素晴らしい。
中町1丁目舞台は彫刻や金具の装飾が少なく、はっきり言って素っ気ない舞台なので、町の人達自身もあまり高く評価していないのですが、この人形だけは自慢です。舞台の由緒は判らないのに、人形はその衣装を新調した棟札(明治35年)が残っているほどです。
「うちの舞台は、人形がいいだけだから。」
町会長の羽山さんは、卑下とも自慢ともつかぬ表情で云います。
実際、中町1丁目舞台は彫刻が無く、実に簡素です。一階の手摺り部分も四角い格子枠になっているだけ。平成の修復前ここに彫刻を加えたいという希望もありましたが、文化財ですからそれはできませんでした。ところが簡素も悪いものではなく、夏の祭りでは、子供(幼児)にこの枠の穴から脚を出させ手摺りに掴まらせている。まるで超高級なベビーカーです。前から見ると舞台の正面に大根のようなかわいい脚が6本並んでいる。なんとも涼しげで可愛らしい。その舞台を曳くのは老人と女性ばかり。でも
『ああ、こういう舞台曳きもいいな。』と、見るたびに思います。
本町2丁目舞台に就きましては、これまでもたびたび触れてきましたので繰り返しませんが、推察するに昭和の4台の中では最も早く計画されたのではないかと思います。昭和7年の5月には大町大黒町舞台の視察を行っていますので、おそらくその前年には舞台建造が決まっていたのでしょう。(舞台保存会だより121)
2丁目に刺激されて本町3丁目、1丁目が舞台建造を決める。この辺はライバルですから、黙って見過ごすわけにはいきません。
考えてみれば、昭和8年の時点で本町筋は1丁目から5丁目まですべて屋根のない簡易型舞台です。(本町3丁目の旧舞台のことは分かりませんが、たぶん簡易型でしょう。)横並びで自分の所が簡易型で隣も同様なら心穏やかですが、一町会でも本格舞台を建造し始めると他町会は『座視するに忍ぶ能わず』ということになる。当時列強による軍艦建艦競争と同じです。本町では2丁目がまず舞台建設の口火を切り、3丁目、1丁目と続きました。
しかし本町4丁目、5丁目は、新しい舞台の建築となりませんでした。この二町は駅前通りを挟んで他三町会と隔てられ、少し意識が違います。また町の経済力にも若干差があったかも知れません。しかし可能ならばやはり舞台建造に取り掛かっていたのではないか。
天神まつりでは本町五町会は境内では並び堵列し、曳行は連なって本町筋を曳き回します。隣には博労町舞台もあります。簡易舞台のままでは忸怩たる思いがあった筈です。
仮定ですが、もし日中戦争がなかったら、或いはもう数年遅かったらどうだったでしょうか?本町4丁目、5丁目も舞台建設に取り掛かっていたのではないか。何とかして立派な本格舞台を建造していたのではないか。(舞台保存会だより72)
しかし昭和12年以降は戦争の時代です。本町1丁目ですら舞台建造中止の瀬戸際に追い込まれました。もう舞台の時期ではない。
『この戦争が終わるまで、待つしか仕方ない。』
しかし日本はそのまま破滅的な戦争に突き進み、舞台新築は儚い夢となった。…あくまで想像ですが。
舞台とは直接関係ありませんが、昭和の戦争というのは理解し難い不思議な戦争だと思います。中国との戦争も相手から仕掛けられたわけではなし、挑発されたのでもないのに、ひたすら戦争に踏み込んでゆく。途中、有力な和平調停が示されてもすべて拒否して、とにかく戦争です。日本はいったい何が欲しかったのか?
惟うに一つはやはり経済だと思う。昭和初期の恐慌、圧倒的な不況、あれだけはもうごめんだ。戦争で経済が維持できるのなら多少海外でドンパチやっても仕方ない。そんな思いが政府にも国民にもあったのではないでしょうか。
戦場となる土地・人に対する同情心・想像力が、まったく欠如していたように思われます。
(神前で祓いを受ける舞台 こうした景色も平和な世ならではです)
また明治政府が掲げた戦争立国の理念は、結局その方向に進むしかなかった、ということでしょう。レミングの集団自殺のように、破滅と分かっていてもまっしぐらにその道に走り、跳び込まなくては終わらなかった。そういうことかと思われます。
戦後、結局新しい舞台は造られませんでした。本町4、5丁目、また伊勢町1丁目も、それぞれ本格舞台を造ることなく、仮屋根を付けたり改修したりして簡易舞台を続けました。昭和30年代には景気も回復し、戦前の水準を越えて『もはや戦後ではない。』とも言われましたが、既に『舞台の時代』でもなかった。ガソリンで走る自動車の時代でした。
ほかの地区では舞台の売却や解体も相次ぎます。でも幸いなことに深志舞台は数を減らすことなく、古び、傷みながらも松本の町民文化を伝えました。(舞台保存会だより112)
平成も舞台の新築はありませんでした。その代わり『平成の舞台修復事業』が行われて、すべての舞台が修復され、創建当初に近い美しい姿で次世代に引き継がれました。
令和の舞台は、どうなってゆくのでしょうか。