舞台保存会だより121 大黒町舞台を廻って
大黒町舞台を廻って
松本市美術館で太田南海展が始まりました。(H30.9.15~11.25)
太田南海は明治21年(1888)松本中町の生まれ、父は人形作者で彫刻も能くした太田鶴斎です。若い頃東京で岡倉天心や木彫家・米原雲海の下で研鑽を積んだ後、再び松本に戻り地域芸術家として活動しました。舞台も本町2丁目舞台と本町3丁目舞台の制作に携わり、松本の舞台に新風を吹き込みました。今回の展覧会では、深志神社天神舞台庫にてこれら舞台の観覧会も予定されています。(11月3日)
太田南海の残した数多くの彫刻作品の中でも、本町2丁目舞台の二階勾欄下に施された4面の彫刻は特に優れたものです。題材は伝統的で古典的な寿老人や張果老、また西王母、寒山拾得など中国伝説に材を取ったものですが、表現も手法も近代芸術の世界に昇華させている。舞台という江戸時代以来の因習的工作物に、このような近代彫刻を施し飾るということは、やはり凄いことだと思います。(舞台保存会だより25)(舞台保存会だより26)
去る7月20日の大町大黒町舞台見学に際し、その二日ほど前、本町2丁目の高美正浩さんが来社され、「自分は大町には行けないけれど、これをあちらの保存会の方に渡してほしい。」と言って、舞台売却等に関する資料のコピーを託していかれました。あらためて言うまでもありませんが、高美さんは老舗の書肆・高美書店の店主です。
高美家には「高美甚左衛門日記」という江戸時代の日記資料が伝えられており、ここから舞台建築に関する詳細な由緒も判ってくるのですが、正浩さんが持ってこられたのは「高美實五郎日記」で、昭和7年5月22日の記述。町内関係者連れだって大町に舞台を見学に行ったことが記されています。本町2丁目は昭和9年に現在の舞台を建造しましたが、新舞台建設の参考にするため、大黒町舞台の視察を行なっていたのでした。
(高美實五郎 祖父・高美甚左衛門が明治20年に奉納寄付した深志神社の扁額と並んで)
『…大町舞台を見る為、町内 中村、今水、松尾、高美、太田南海、清水氏と行く。元町内の所有にて、寛政五年、スワ立川和四郎の作品なり。…中々の出来にて良き参考となる。…』
中村、今水、松尾は町内の有力者。高美實五郎は当時本町2丁目の町会長のような役職で舞台建設委員長も務めています。清水氏とは清水湧水に違いなく、彼は舞台建設の大工棟梁で彫刻も兼ねました。この大町行きは舞台建設の方針が固まり、関係者一同新舞台のイメージを膨らませるための旅行だったようです。
(5月22日に訪れたことになっているが、この日に祭礼はなく、どうして舞台が見られたのか謎)
なお「寛政五年」とあるのは、その更に前代の舞台(北大妻の舞台)と混同した高美氏の誤認、或いは記憶違い。正しくは「天保九年」です。また舞台を「スワ立川和四郎の作品なり」としているのは、和四郎の盛名に因ると、視察の主眼が彫刻にあったためか。今も昔も大黒町舞台を観るとは、何よりもまず立川和四郎の傑作に触れるということでしょう。
この大町行きの前か後か、太田南海と清水湧水は本町2丁目に簡単な舞台彫刻についての仕様書を提出しており、南海は八仙人の彫刻を彫ると請け合っています。立川和四郎の彫刻が南海をどのように刺激し、出来上がった彫刻にどう反映されたのか、想像の世界ですが興味の尽きないところです。(舞台保存会だより28)
7月20日の大黒町舞台見学の際、何人かの方から「やはり本町2丁目の舞台と似ているね。」との感想が聞かれました。そうでしょうか?…似ていますかね?
どちらも深志舞台でセオリー通りに作られていますから似ていると言えば似ていますが、それ以上ではありません。セダンタイプの乗用車を並べて、よく似ていると言うようなものです。プロポーションがまったく違いますし、基本的に造作が違います。強いて似ていると言えば輪覆いが網代型で組まれていることぐらいでしょうか。これは現本町2丁目舞台が敢えて大黒町舞台を真似たものと思われます。形だけですが。(舞台保存会だより21)
大黒町舞台のプロポーションは、現在の深志舞台とかなり違います。まず正面から見たとき、かなりスリムな印象。スッと立ち上がった感じです。
大黒町舞台の高さは約5m。これは深志舞台として最も高い方で、本町1丁目舞台や中町2丁目舞台と同じくらいです。一方車体の最大幅はちょうど2mほど。(本町1丁目舞台は2,4m強)しかも左右の小屋根が比較的小さく、あまり左右に出張らないように作られていますので、すっきりとした立ち姿に見えます。ですから正面に立った時、圧迫感のようなものがなく、すっきりしていて、意外に小ぶりな舞台だな、とさえ感じます。
一方、側面に回ると実に堂々とした大型舞台を感じさせます。左右の小屋根は小さく、車幅からはみ出ないように付けられていましたが、前後の小屋根は長く大きい。前方は大きな竜の持ち送りで支え、後方は一階手摺りの支え柱を伸ばして大型の小屋根を支えています。この式の支柱式の持ち送りは、江戸時代中期の大型舞台に屡々見られます。
そして大黒町舞台の車体部分の全長は4,6m。(梶棒は含まない)それに対し、本町1丁目舞台は約3,7m、本町2丁目舞台は約3,6mですから、大黒町舞台は大型の深志舞台より1mほども長いことになります。これは大変な違いです。
つまり、大黒町舞台は車幅が狭く車高は高い。そして車長は極めて長い。細長い車体です。VIP用のリムジン車のようなバランスでしょうか。
どうしてこんな細長い舞台を作ったのか?これは推測ですが、町内の細い小路に入ることを想定していたのではないか。
大黒町舞台は元松本本町2丁目舞台です。舞台が建築されたのは2丁目町内の正安寺境内と伝えられます。その後舞台の組み立ても正安寺だったらしい。正安寺は現在のパルコの辺りにありました。現在の高砂通りは、かつては本町通を貫いて今の開運堂の脇をまっすぐ西に延び正安寺に至る小路で、正安寺小路と呼ばれていました。舞台は小路から出てきたわけです。
大きな舞台は作りたいが、エラの張った舞台では小路を抜けられない。そこであのような細長い舞台が作られたのではないでしょうか。
また大黒町舞台は、その傍らに立つと深志舞台とは違った大きさを感じます。全体に大きいことは間違いありませんが、大型の深志舞台と比べて極端に大きいわけではない。何が違うのだろうと見たところ、台車部分の厚みが違い、それにともない一階の床の高さが違います。図面でその高さを計測すると、地上からおよそ111cmあります。これに対し本町1丁目舞台はちょうど100cm、本町2丁目舞台は92cmほど。通常の深志舞台はだいたい90cm前後ですから、111cmというのは異例の高さです。たかが10センチ、20センチと思いがちですが、身体感覚としての10㎝は大きい。この床上に彫刻の施された手摺りが付く。大人の胸から首ぐらいの高さになりましょうか。舞台の中に人が座っていると見上げる形になります。こういう舞台は松本の深志舞台にはなく、「わぁ、大きな舞台だな。」と感じます。
(大黒町舞台 手摺りに寄っている男性と比較してみてください)
これに近い感覚の舞台に出会ったことがあります。下波田の舞台です。
下波田の舞台も大きさを感じる舞台です。サイズを計ったことはありませんが、やはり一階までの高さが分厚く、胸のあたりに迫ってくる感じ。一階の手摺りにはたいへん見事な唐子の彫刻が施されています。
二階勾欄下の彫刻も高くてとても遠い。鮮やかな七福神の彫刻が施されているのですが、思い切り手を伸ばして写真を撮った覚えがあります。
(下波田の舞台 向かって左は中波田の舞台である 一階部分の高さに注目)
下波田の舞台は中波田の舞台と並んで諏訪神社の拝殿前に据えられますから、比較するとその大きさが際立ちます。感覚として中波田の舞台が標準的な深志舞台と同等の大きさと感じます。
これまでも何度か触れてきましたが、下波田の舞台は元松本伊勢町の舞台です。明治10年に伊勢町より下波田村に売却されました。伝承となりますが建造は慶応年間(1865~67)、大工棟梁は原田幸三郎と伝えられます。すなわち大黒町舞台と同じ大工の手になる舞台で、二つの舞台は姉妹車と言えます。
原田幸三郎は、本名を原田恭助と言い伊勢町に住みました。息子は原田倖三(蒼渓)で、松本の立川流の彫刻師として名高い。幸三郎は立川和四郎と組んで大黒町舞台を建造していますから、原田蒼渓も父のつながりで立川の技を学んだものと考えられます。
幸三郎は生年不詳、没年のみ伝えられています。(明治8年・1875没)仮に70歳で亡くなったとすると文化2年(1805)の生まれとなり、大黒町舞台の建造時で33歳、下波田舞台は60歳前後となりましょうか。
ちなみに原田蒼渓の誕生は天保6年(1835)。幸三郎が大黒町舞台の建造の取り掛かった年です。下波田の舞台が建造された慶応年間には30歳を迎えており、彫刻師としてか、少なくとも大工としてその建築に関わったものと推測されます。
(下波田舞台の一階手摺り彫刻『唐子遊び』 作者は原田蒼渓か?)
(下波田舞台の二階勾欄下彫刻『七福神』 これも原田蒼渓作か?と推測される)
(この彫刻は下波田に売却されたのち 明治12年に施されたと伝えられる)
下波田舞台に就きましては、図面等作成されていませんので、幅、長さ、高さ等寸法諸元は分かりません。ただ接してみた感触は大黒町舞台と大変よく似ています。共に原田幸三郎の渾身の作と言ってよいのでしょう。
江戸文化の完成期に制作された松本舞台の最高傑作と言える二つの舞台が、今もそれぞれの地区で大切にされ元気に曳かれていることは、嬉しくも感慨の深いことです。
※掲載した図面はすべて信州大学工学部土本研究室による