舞台保存会だより115 村上鉄堂を訪ねて
村上鉄堂を訪ねて
昨年の4月、一通のメールを受け取りました。神奈川県在住の村上邦夫さんという方からで
『私は…、小松市生まれの彫刻師村上九郎作(1867-1919 号は鉄堂)の孫です。』と名乗られました。飛騨古川竜笛台の彫刻作者と目される村上鉄堂のご子孫からのメールです。
村上鉄堂に就きましては一昨年の12月、「舞台保存会だより103」で紹介しました。かんたんに振り返りますと、飛騨市古川の竜笛台の彫刻は清水虎吉の作とされ、松本でも古川でも虎吉の傑作として認知されていましたが、実物を見るにどうも作風が違います。立川の流れを汲む虎吉の作とは思えません。作品には『鐵堂』の落款があり、これも虎吉の号の一つと見做されてきましたが、他に使用例がありません。
高山の長瀬公昭さんに調査を依頼したところ、石川県小松市の生まれで金沢で活躍した彫刻家・村上九郎作が真の作者ではないかと推測されました。
村上九郎作は鉄堂を号とし、北陸地方に現在も盛んな彫刻産業を育成した偉大な彫刻家で、竜笛台の大型彫刻も製作可能な作者だったと考えられます。「たより103」の最後で私は、
『老婆心ながら古川弐之町下組に於かれては、玉・鉄二人の匠名(村上鉄堂と市山玉香)を表にしていただき、虎吉の名は屋台の歴史の一齣に留めていただければと希望します。』
とまとめました。清水虎吉には申し訳ありませんが、作品というものはやはり正しい作者の名を冠するのが、必要であり当然なことです。
ところが、この記事が偶々インターネット検索で村上邦夫さんの目に留まりました。しかも氏は祖父の業績を伝えようと、伝記『村上九郎作 生涯記 ~近代日本の黎明期を生きた、二つの顔を持つ彫刻師~』を出版し、世に問うたばかりだったため、古川竜笛台彫刻の存在は予期せぬ新事実で、驚きの念とともに事実確認のメールを送られたもののようでした。
私はさっそく村上氏とメールのやり取りをして状況を説明し、『生涯記』も送っていただき一読しましたが、これはやはり小松に行かなくてはと思いました。
松本の舞台や社寺には直接関わりありませんが、清水虎吉との奇妙な行き違いから、漸く名を顕した北陸の匠・村上九郎作。その仕事を追うのは必然なことと思いました。
村上氏の『生涯記』で知りましたが、村上九郎作は工芸教育家や輸出用の工芸作家としての活動が多かったため、社寺建築彫刻として残る作品はあまり多くありません。そしてその大半は彼の生まれ故郷であり晩年を過ごした石川県小松市に在ります。小松市には『お旅まつり』と呼ばれる曳山祭りがあり、村上九郎作の彫刻を載せた山車も出場するという。期日は大型連休を終えた後の5月の第2週末。高山の長瀬公昭さんと誘い合わせ、一緒に訪ねることにしました。
5月13日、朝早く松本を発ち、高山で長瀬さんと笠原棟梁を拾うと、東海北陸自動車道で小松へと向かいました。小松は金沢の先、石川県の南部です。もう少し走れば福井県。ずいぶん遠い所と感じていましたが、自動車道のおかげで、ものの1時間ほどで小松ICに着いてしまいました。長瀬さんによれば金沢までなら40分少々で、近ごろは少し気の利いた買い物はもっぱら金沢なのだそうです。
それに対し松本-高山間は、山岳道路を厳しく攻めて1時間半。今や境を接する隣の市だというのになんとしたことでしょう。観光はもとより産業や文化面でも大きなマイナスです。遅れに遅れている中部縦貫自動車道の早期整備が望まれます。
小松ICを降りると、その出口に宮下知己さんという方が待っていました。宮下さんは村上九郎作の生家があった京町の方で、測量設計会社を経営しています。今回我々が小松を訪ねると聞いて、村上邦夫さんが案内を依頼してくださったのでした。小松は城下町なので松本と同様路が複雑。交通規制もありますし、迷わないようにとわざわざ道案内に出てくださったのです。北陸人の情の篤さ、親切心まず感銘しました。
(宮下さんの自宅兼事務所前で 子ども獅子が門付けに来ている)
宮下さんによれば小松は人口約10万。昔から金沢に次ぐ石川県第二の市として県南の中心都市です。市の名を冠した有名な建設重機会社があります。
歴史的には安宅関があり古くから北国街道の要衝でした。町としては江戸時代、加賀藩三代藩主・前田利常公が築城し、城下町を整備したことから小松の歴史が始まったようです。
前田利常公は最後の戦国武将の世代に属する人物です。江戸初期に独特の気骨で加賀前田家を守り、政治的にも文化的にも発展させていった名君で、現代に連なる金沢文化の基礎を築いた藩主として有名です。その利常公が造った小松の町は産業や文化が発達し、現在も北陸の工業都市、歴史的文化の香る町として独自の地位を保っています。
その前田利常公が始めたとされる祭りが『お旅まつり』で、山王社「本折日吉神社」と諏訪社「菟橋神社」の祭礼行事ですが、市の中心に八基の曳山が曳かれ、その曳山上で子ども歌舞伎が演じられるという床しい祭りです。この祭りは小松市の徳とするところで、歌舞伎の町と称し、全国子ども歌舞伎フェスティバルを開催するなど、町の文化の発信と、市の発展を図ろうとしています。祭礼とその奉祝行事が町の資源であるとは当然のことですが、現代ではなかなか喧しいことも多く、羨ましいことだと思います。
町に着くと、宮下さんに案内されてさっそく京町の曳山会所を訪いました。町の一角に三角形の仮設屋根を架け、曳山の出御準備をしています。町会長さんや祭典委員長さんなども大変喜んで迎えてくれました。よくぞわれらの山を見に来てくださった、と歓待してくれます。宮下さんの手前もありましょうが、やはり来訪者を歓迎する土地の気風なのだろうと思います。
(京町の曳山会所) (京町役員さんと、長瀬・笠原、宮下さん)
京町は曳山を所有する八町の中でも「一番山」と呼ばれ格式が高く、嘗てはすべての行事を筆頭で行ったそうです。比較的コンパクトな印象の胴部の上に大きな三角屋根。なんとなく正面から見た善光寺にも似ます。屋根の軒先には白い球のようなものが頻りと配されており、何かと思ってよく見たら電球でした。夜になるとこの電球が灯り、宵闇の中に屋形の形を浮き立たせるという趣向なのでしょう。但し、曳山自体は大変古く、寛政4年(1792)建造といいますから200年以上むかしのもの。脚回りなども重厚な造りでした。
村上鉄堂の彫刻は「むしこ(虫籠)」と呼ばれる曳山下部の格子胴部分にありました。正面の左右に雄鶏雌鶏のひと番(ツガ)い彫刻。周りに菊の花を配した鶏は生気にあふれ、彫も精緻で気品があります。一尺角ほどの小さな彫刻ですが、見るほどにその美しさと存在感に打たれました。博労町や亀崎力神車の立川和四郎の鶏も想い起こしつつ見入りました。
側面にも麒麟や虎、鴛鴦などの彫刻が廻らされています。(竜・鳳凰・鴛鴦・麒麟・獅子・虎)どれもきちんとした彫りで、あまり派手やかではありませんがやはり品格があります。
村上氏の生涯記によれば、この側面彫刻は村上九郎作の祖父・村上九郎右衛門の作で、彫刻裏の墨書により文政12年(1829)の制作と確認されています。これを九郎作が明治34年(1901)に修復しているようです。そして鶏の番い彫刻が大正元年(1912)村上九郎作・鉄堂により加えられ、更に曳山の見返り(背面)には、九郎作の弟子・吉田楳堂の彫刻も配されました。(1959)
京町曳山は江戸の後期から昭和の中頃まで、彫刻師・村上一族師弟によりおよそ130年かけてその彫刻を完成させたことになります。
洋の東西を問わず、嘗ては優れた芸術や工芸は、家系や師弟によってその技、メチエが受け継がれました。芸術とは発明ではなく継承だったのです。一つ一つの作品もさることながら、世代を重ねて一つの世界が築かれてゆくとは、実に感慨深いものがあります。
(京町曳山の各部 床と台車の間は縦格子で囲われ「むしこ」と呼ばれる)
午後になると8台の曳山は、それぞれに各町を出発し、古い屋並みの小松の町を通り、細工町交差点の広場に集まり曳き揃えとなります。北陸らしい曇天のもと、曳山は広場に並び、出店も軒を連ねて町全体が祭の雰囲気に包まれてきました。曳山と子ども歌舞伎を見ようと多くの人が集まってきます。小松の市民全体から待ち望まれた祭りなのだと感じました。
祭典関係者の多くが『曳山250年』という法被を着ています。前年、平成28年(2016)が小松の町に曳山が誕生して250年目の節目の年だったのだそうです。
記録によれば小松の曳山の始まりは明和3年(1766)で、山王祭に二つの町が曳山を始めました。長浜の曳山祭りがモデルだったようです。近世以前は北陸から京都大阪へ交通は、琵琶湖の水運を利用してのルートが主でしたから、長浜は流通にとって極めて重要な町で、北陸の商人たちは必ず長浜を通りました。そしてその祭りに驚き、心を奪われたことでしょう。豪華な山車とその上で演じられる演劇。都市の祭礼娯楽としてはこれほど面白いものはありません。(舞台保存会だより107)
「お旅まつり」はまさに曳山と歌舞伎がセットの長浜型です。曳山自体は長浜よりややコンパクトで、スタイルも腰の絞れた独特な形をしています。彫刻や彫金などの装飾は控えめですが、漆金箔を多く用います。
屋根に特別な美意識とこだわりがあるようで、胴部に比べやたらと大きい。二重屋根にした山もいくつかあります。(曳き回す山車に、重く大きな屋根は安定性のためにも極力避けたいものなのですが…)軒の斗栱なども過剰なまでに重ねて金箔を貼り、呆れるほど絢爛豪華。やはり加賀は金箔が好きなのでしょう。
(曳山で演じられる子ども歌舞伎を見ようと 多くの人が詰めかけている)
電飾の灯る夕刻までいて、子ども歌舞伎も見たかったのですが、後に都合かあり叶いませんでした。またいつか、ゆっくり時間を取って観覧に来たいものです。