舞台保存会だより113 舞台庫調査行われる
舞台庫調査行われる
先月13日、舞台庫の調査が行われました。舞台庫の耐震性を計るためです。
東日本大震災以来、わが国は各地で地震や自然災害が頻発し、日本列島は災害のシーズンに入ったとも言われます。松本も五年前に最大震度5強の松本地震に遭遇し恐怖しました。あれで終わりなら勿怪の幸いですが、本命視されている牛伏寺断層ではなく、未知の断層が動いたようです。松本は中央構造線のど真ん中に位置する以上、やはり巨大断層地震の不安は拭えません。震度7以上の激震が襲ったらこの町はどうなってしまうのでしょうか。
舞台を収めている舞台庫は皆古いものですから、耐震基準に沿って建てられたものではなく、いざというときに耐えられる代物なのか、予てから不安視されていました。平成の舞台修復事業によりすべての舞台は創建当初の如く美しく生まれ変わりましたが、舞台庫は昔のままです。せっかく改修した舞台が、地震による舞台庫の崩壊でオシャカになっては堪らない。場合によっては建て替えも検討すべく、まずは現状舞台庫の調査となりました。
調査は松本市教育委員会文化財課から紹介いただき、松本市文化財審議委員のY先生にお願いしました。Y先生は設計事務所を経営する一級建築士で、市内の古い建築物にたいへんお詳しいそうです。当日は文化財課のF主事も加わって深志神社隣の天神舞台庫から調査を始めました。因みにY先生もF主事も女性で、心楽しい調査となりました。
(舞台調査風景 前半は石塚会長と小林事務局長が参加してくれました)
前回のたよりでも取り上げましたが、この長屋式舞台庫に就いては、建築に関する経緯がまったく分かりません。(舞台保存会だより112)
建造年次についても、おそらく前の松本市市民会館の建築と同時期、昭和34年前後と推測されますが、記録も記憶もありません。60年ほど前のことですから、高齢の方の中には何か知っている人がいてもよさそうなものと、舞台町内の長老格の方にはだいぶ訊きましたが、誰もまったく記憶がないようです。
そんなわけで現在の舞台庫について確かなことは、およそ60年の星霜を経た建物であるということ。そして軽量ブロック積み上げの建物であること。そのくらいです。
設計図はもとより施工実態も全く不明、半世紀以上を経過したブロック積み構造物が、どの程度の耐震性を有するのか。甚だ心許ない思いを抱きながらの調査となりました。
構造名称としては「コンクリートブロック造」というのだそうです。構造としては極めて単純で、軽量ブロックをコの字型に積み上げた細長い箱を、長屋式に中で仕切って10個の部屋に分けています。屋根はコンクリートのスラブ。
コンクリートブロック造の建物では、ブロックの中に鉄筋が入っているか、それがどの程度の頻度で入っているかが強度を判断する上での基準となるようです。軽量ブロックはかつて屋敷の塀に多用されましたが、鉄筋の入っていないものが多く、地震では屡々そのまま倒れて路上通行者に危険を及ぼしたりします。
深志の舞台庫はそうは言っても5mを超える建物ですから鉄筋は入っているはずで、じっさい一部の舞台庫では、余った鉄筋が処理されぬまま壁と天井の合わせ目から出ている様子も見えましたから、鉄筋は入っている模様です。但しその頻度は判らない。部分的にでも解体して調べないと正確な耐震強度は出ないそうです。
舞台庫は全体としても単体としてみても大きなコの字型に造られており、舞台を出し入れする都合上どうしても北面には壁がない形をしています。Y先生によればこの面に耐力壁が無いことになるので耐震構造として弱点であるとのこと。それはそうですが、舞台庫は舞台を保管し、それを出し入れするためのもの。耐震性のためにその口を塞ぐわけにもいかず、なるほどと言って苦笑いするよりほかありません。
庫によっては施工の粗さや、一部クラックも見つかりましたが、全体としては大いに心配な箇所というのは見当たりませんでした。すなわち、5年前の松本地震によるダメージというようなものは見えませんでした。意外なことです。
松本地震では深志神社でも石造物がいくつか倒壊し、鉄筋コンクリート造の会館もあちこち被害を受けました。ところが築60年のブロック造舞台庫はほとんど無被害であった。耐震性など全く度外視の建物のはずですが、考えてみれば不思議なことです。総体として細長く低いフォルム、内に仕切り壁の多い造りが要因ではないかとY先生の見解でした。
深志神社手前、富士浅間神社境内にある宮村舞台庫も造りは同じなので状況は同様。但しこちらは4台分の舞台庫で、そのうち1台分は少しあとから追加建設されています。この追加された舞台庫(伊勢町2丁目)は、構造がやや弱く、内部環境も宜しくないとのこと。改善の必要がありそうです。(舞台保存会だより7)
(伊勢町2丁目舞台庫とその内部 庫内のスチール製足場もその可否が問題となりました)
保存会所属の18舞台のうち14台の舞台は天神と宮村の共同舞台庫に収納されていますが、残り4台はそれぞれの町会が所有する単独の舞台庫に収まっています。本町5丁目、博労町、六九町と東町2丁目の舞台・舞台庫です。これらは木造の舞台庫になります。
本町5丁目舞台庫は町内の極楽寺境内にあり、お寺の経営する保育園に隣接しています。園庭の隅に舞台庫があるといった感じで、調査の間も子供たちが近くを走り回っています。「こんなの見つけたよ。」と言ってミミズの干物を持ってきてくれる子もいました。
この舞台庫は5丁目舞台修復の際に併せて改修され、土本先生の指導で耐震補強もされています。基本木造ながら、壁は断熱材入りサイディング張り、鉄板屋根。要所に筋違やブレースが加えられ、しっかりとした耐震対策が取られており高評価です。
更に調査の間も園庭で遊ぶ園児たちの声が絶え間なく響き、こんなところに仕舞われている舞台は幸せだな、と感じる舞台庫でした。
続いて調査に向かったのは博労町の舞台庫です。定刻に伺うと、すでに町会長の伊藤さんをはじめ、4人の町会役員の方が舞台庫の扉を開けて待っていました。
(博労町舞台庫 隣の鳥居は大日様を祀り併せて博労町の公民館となっている)
博労町舞台庫は、いかにも舞台蔵という姿の風格高い舞台庫です。木造ですが壁は土壁で、土蔵造りといってもよいのかも知れません。屋根は瓦屋根、外壁は亜鉛鉄板を張ってあります。棟木に大正12年と棟書きがありますから、おそらく深志舞台庫の中で最も古い舞台庫でしょう。嘗ての舞台庫は皆このような蔵であったのだろうと想像させます。しかし古いということもあり、耐震については最も低い評価の舞台庫となってしまいました。
現代の常識からすると意外ですが、昔の建物というのは土台部分が基礎と結ばれていません。地面や石の基礎の上にそのまま置いてあるだけです。博労町の舞台庫もやはりそういう建て方で、小さい揺れは吸収して耐えますが、大きな地震が来ると倒壊か、そのまま倒れることもあるそうです。実際に先の松本地震では被害があり、壁の剥落や全体の歪みが発生したそうです。すでに目視でも建物は傾いていました。筋違などの補強や、建物全体の軽量化など、早急な補修が急がれます。というか、惜しいですが寧ろ建て替えを検討した方がよいのかも知れません。舞台庫は舞台を保護するための施設ですから。
(六九町舞台庫 今町にある) (後方からの姿 屋根は瓦葺き)
昼食後、今町にある六九町舞台庫を訪ねましたが、連絡に齟齬があったようで町会の人と会えず、外観のみ観察して最後に東町2丁目舞台庫へ向かいました。
東町2丁目舞台庫は2丁目の町内ではなく、岡宮神社の隣にあります。欅の生い茂る岡宮神社の杜の向いに舞台庫は静かに建っていました。町会長の新村さんが待っていました。
東町2丁目舞台庫は基本木造ですが表は鉄板張り、屋根も波板トタンで葺かれています。市内の舞台庫や船蔵によく見るタイプで、これでもか!という姿の舞台庫です。飛騨の屋台関係者が見たら卒倒するのではないでしょうか。手前はごみステーションとして利用されているはずですが、調査を憚ってかこの日は何も置いてありませんでした。
中も凄い。板張りですが、あちこちに外板の鉄板が覗き、外光が洩れ入る隙間もあります。雨漏りは大丈夫なのでしょうか。土台部分も基礎との連結はなく、礎石に乗っかっているだけです。ちょうど大きな駕篭を伏せ置いた感じで、地震よりも台風など大きな風が吹けば、そっくり吹き飛んでゆくのではないかと思われました。
しかしY先生はむしろ治し甲斐のある舞台庫と感じたようです。建物の強度はまったく不足していますが、筋違や補強によって改善は可能。柱は丸太で、これは角材より強度があるとのこと。舞飛びそうな建物ですが軽さが美点で、自重による崩壊の心配が少ないといいます。
「木造は補強で随分と改善します。屋根などを軽くしてやるのも効果的。融通が利きます。その点コンクリート造はねぇ…。建てなおすしか方法のないケースが多いですね。」
最初に調査した天神舞台庫を思い、浮かぬ心持になりました。
「でも、この舞台庫、環境は一番いいですよね。周りに樹が多くて幸せな感じがします。」
文化財課のFさんが、楽しそうに言います。
そういえば秋の柔らかい日差しを受けて、表では岡宮神社の社叢がさらさらとそよぎ、落ち葉を散らしています。鳥の囀りも絶え間なく聞こえていました。舞台庫は東向きで、居ながらにして杜の四季を楽しめる。確かにいい環境です。
それにしても晩秋の午後、落ち葉の量は膨大で、先ほどから青っぽいジャンバーを着た男性が、独り黙々と道端の落ち葉掃きに奮闘しています。町の衛生部の方か、堆肥作りのための落ち葉集めか。いずれにせよ大変なことと、
「ご苦労さまです。」
と声をかけると、岡宮神社の宮司さんでした。