舞台保存会だより107 長浜曳山祭り
長浜曳山祭り
去る4月14日15日、今年の「山車まつり視察ツアー」として、長浜曳山祭りを訪ねてまいりました。昨年に引き続き春の山車まつり視察。会員・関係者19名の参加を得、一泊二日で春真っ盛りの琵琶湖の畔を旅しました。舞台保存会としては平成29年度最初の事業ということになります。
曳山祭りは長濱八幡宮の例祭奉納行事。豪華な曳山と子ども歌舞伎が有名な全国屈指の山車祭りで、いつかは訪ねてみたい祭の一つでした。
長浜には13台の曳山があります。但し毎年13台が曳かれるわけではありません。長刀山と呼ばれる一台を除いては年に4台ずつ出場します。即ち出番は3年に一度で、つまり3年続けて通わなければ全部の曳山を見ることはできません。ところが今年はすべての山が出場する稀有な年となりました。こういう機会を見逃す手はありません。
以前にも触れましたが、今年の初め全国33の『山・鉾・屋台行事』がユネスコの無形文化財登録となりました。「長浜曳山祭り」も勿論その一つですが、ユネスコ登録の暁にはすべての山が曳き出されて盛大な催しとなると噂されていました。そこで昨年の夏からホテルを押さえて、ツアーの準備を進めてきました。予想通りユネスコ登録となり、全山出場の賑やかな祭礼に際会できたことは甚だ満足とするところです。
(今回も利用させていただいた松本市のバス「信州まつもと号」)
さて、14日の朝、ツアーは例によって伊勢町Mウイング前を松本市のバスで出発。中央道・名神を西へ、近江を目指します。目的地は長浜ですが、両日長浜で曳山を追っていても飽きてしまいますから、初日はまず彦根でお城見学ということに致しました。今年は彦根も大河ドラマの舞台になりますから、注目の観光地です。折から彦根城は桜まつりの最中で、今年は遅い桜がまさに満開でした。
言うまでもありませんが、全国で国宝に指定されているお城・天守閣は姫路城をはじめ五つだけで、松本城、彦根城もその内です。また、江戸時代から残る天守閣のある城は12だけと聞いています。江戸時代は300諸侯と云いましたから、その数に近くお城も在ったと思われるのですが、明治以降その大半が破却されました。明治維新が烈しい革命であったことが知れます。
生き残った城も、その多くは奇跡的なエピソードがあり、僥倖が重なった強運の城と云えます。一方で城を守ろうとした多くの人々の努力も伝えられており、地域の人々に支えられて残った城と云えます。松本も彦根も町の自慢は美しい天守閣を擁するお城でしょうが、本当に自慢してよいのは、城を残した町の人々だと思います。
彦根城は好天と満開の桜にも恵まれ、本当に美しい姿でした。天守閣は三層ですから、五層六階で乾・巽に小天守を配した松本城に見劣りしますが、城郭の要所に櫓を配し、楼門を重ねた城全体の構えは比較になりません。殊に彦根城は平山城ですから、平野の中の一山を城塞に築き上げており、山と一体になった城郭建築の美しさは松本城にはないものです。(その代わり松本城は、北アルプスをバックにしたロケーションを自慢していますが)
その城郭へのアプローチ、山肌を切り何段にも重ね廻らされた石垣が素晴らしい。彦根城の石垣は、組まれた時期や石工の違いにより数種類あるようですが、天守閣を載せる野面積みや天秤櫓付近の落し積みなどは、なんとも見事で言葉もありません。
美しい石組と緑と白亜の城、そこにピンクの桜が光華を添え、実に鮮やかな春の城でした。
松本城は彦根城と組んで世界遺産登録を目指していますが、あちらは単独でもその資格があり却って迷惑ではないでしょうか。お荷物にならないように頑張ってほしいと思います。
彦根城見学を終え、一行は琵琶湖沿いを北上、長浜に向かいました。
長浜市は人口約12万人。米原の北に位置し、ほぼ琵琶湖の北辺を包むように広がります。地政学的には北陸と琵琶湖水運をつなぐ交通の要衝で、商工業が発達し、中世は殊に重要な町でした。歴史的には羽柴秀吉が初めて領国を与えられ城持ちとなった処で、即ち太閤記前半のピークとなる町です。そのため今でも太閤人気が高く、駅近くには豊国神社もあります。
しかし秀吉所縁の城下町というのは江戸時代にはやはりマイナス要素で、徳川氏が政権を獲ると長浜城は早々に解体され、彦根城の建設資材などになってしまいました。
城が無くなり、江戸時代は城下町というより大通寺の門前町といった性格が強い町だったのではないかと思います。
(横から見た曳山 大きいのでなかなかファインダーに収まりません)
さて、曳山祭りですが長濱八幡宮の祭礼行事で、その始まりは秀吉治世時に遡るといいます。往時、羽柴秀吉は戦乱で荒廃していた長濱八幡宮を再興させ、更に町民に下賜金を与えて山車を造らせ、八幡宮の祭礼に曳き回したのが始まりだそうです。町づくりと祭礼を組み合わせて城下町を造り上げていく手法は、多分この頃から始まったもので、江戸時代初期にかけて日本の都市建設に大きな役割を果たしました。由緒のとおりならば、長浜曳山祭りは江戸時代以前に遡る古い山車祭りで、京都の祇園祭に次ぐのかも知れません。
曳山で子ども歌舞伎が行われるようになったのは何時ごろからか、詳しく調べてはいませんが江戸の中頃には行われていたようです。また、それに伴い曳山も各町競い合いで豪華に飾られてゆきました。
明くる15日朝、保存会一行は長濱八幡宮を訪ねました。社務所に寄り挨拶しますと、拝殿と呼ばれる社殿の桟敷席に案内されました。折から降雨で、屋根付きの観覧は大変有難い。
この拝殿は深志神社の神楽殿と同じような位置関係にある建物で、広く境内が見渡せます。檜皮葺の立派な建物で重文級の風格があります。曳山は4台、拝殿右手に並んでいました。
軈て子どもの武者行列が拝殿の周囲を廻る「太刀渡り」という行事が行われ、続いて曳山の上で子ども歌舞伎が始まりました。長浜では「狂言」と呼ぶそうです。
今年の壱番山は「諫皷山」という大通寺近くの曳山で、「桜乱梅舞曲」という演目が演じられました。時代衣装を纏った小学生ほどの子供が演じ、ストーリーは至極単純明快です。
虎退治の功業を果たした若武者マサキヨ公は、殿から褒美は望むに任すと褒められ、ならば奥方様の腰元もみぢ君を自分の妻に、と望みます。しかし予てから自分ももみぢに目を付けていた殿は不承知、他の望みにせよと…。そこへ奥方のねねさまが登場、何か不都合でもあるのですかと質すと、殿はしぶしぶ二人の結婚を認めます。
認めたものの諦めきれず、隙を見てはもみぢに迫る殿。また、ねねさまに懸想して道ならぬ思いを告げる若侍も登場して、家中は上下をひっくり返した色恋の混線模様。困じたねねともみじが一計を案じ、祭礼で賑わう一宵、互いの衣裳を取り換えて言い寄る男どもを罠にかけ、罠に嵌った殿が平に謝り一件落着。最後は全員「めでた踊り」でハッピーエンドのお開きとなります。
なかなか笑えて楽しめる子ども歌舞伎した。
後から考えれば、ストーリーは明らかに「フィガロの結婚」の翻案で、面白いのも道理ですが、色恋噺を10歳前後の子供が演じるから一段と面白い。大人の役者が浮気・不倫を演じてもどうこうありませんが、子供が演じればこれは笑劇。まさに子ども狂言です。
また登場人物の名前から、殿は明らかに秀吉で、太閤を揶揄したパロディです。しかしここは長浜。秀吉をこんな風にからかってよいのでしょうか?
フィガロの翻案といい、秀吉のパロディといい、伝統やしがらみに捉われない姿勢には感心しました。実に大人びたユーモアを感じます。いずれにしても子ども歌舞伎は、たいへんソフィスティケートされたもので、良い意味で伝統の厚みを感じさせました。
(町を移動する曳山) (大手門通りと呼ばれるアーケード街へ)
子ども歌舞伎は一つの演目が45分ほど。全部見たいのですが時間の都合もありますので、移動する諫皷山の後を追って街に出ました。
長浜の町は時間が止まったかと思われるほど昭和の気配をとどめた街で、町全体に何ともいえない郷愁が漂います。昭和40年代のイメージでしょうか。メイン通りはアーケード街になっており、昔の六九町通りを髣髴とさせます。
更に一歩わき道に逸れると、古い水路と人ひとりが漸く通れるような細い路地が交錯し、焼酎のCMではありませんが、記憶の迷路に迷い込んだような錯覚を覚えました。
長濱八幡宮で奉納を終えた曳山は、アーケード通りでも狂言を演じつつ、お旅所を目指します。お旅所には今回出番ではないもののユネスコ登録を祝って出場した他8台の曳山が集結していました。予定通りすべての曳山を見ることができました。
長浜の曳山はその豪華さは言うまでもありませんが、機能的には全く歌舞伎のために設計されているようです。曳山とは呼ばれますが、これぞ「舞台」という姿をしています。前方のステージと後方に楽屋と囃し方控を兼ねた屋形部分。まさに移動劇場、舞台です。
(御旅所《八幡宮の神輿が鎮座している》と、その前に整列する8台の曳山)
長野県では多くの山車が「舞台」と呼ばれます。しかし山車の上で演劇や芸能が行われることは、あまり聞いたことがありません。ただ深志舞台では初期に手踊りやら歌舞の芸能事が行われていた記録があります。始まりはやはり「舞台」だったのでしょう。
長浜の曳山と深志舞台は形態的にはあまり似ていませんが、深志舞台も嘗ては長浜のような狂言が行われていたのではないか?長浜曳山は松本舞台のルーツだったのではないか?
そんなことを考えつつ、長浜の町を逍遥しました。