舞台保存会だより105 鳥の彫刻(つづき)
鳥の彫刻(つづき)
「鳥の彫刻」は英語に訳すと「バードカービング(bird=鳥・carving=彫刻)」となります。バードカービング(bardcaving)は一つの言葉で、野鳥の彫塑と、その制作のことを言います。
バードカービングは19世紀初めにアメリカで始まったといいます。もともと狩猟用の囮(デコイ)が始まりで、鴨などが本物と見紛うようリアルに彫刻・彩色されました。デコイですから基本実物大です。やがて趣味の世界に広がり、1970年代には日本にも紹介されました。趣味講座などもあるようです。
映画やドラマで、カントリーハウスの暖炉の前で初老の男性がナイフ片手に木塊を削り出す姿などは、見ていて憧れます。
考えてみれば、鳥という生き物は羽搏く姿でなければ形態が単純で、頭部から尾部までやや細長い紡錘体です。胴体から手足や頭が生えている人間や動物と違い、形態全体がすんなりとした塊状をしており、彫りだすにしても成形は比較的容易でしょう。脚はたいてい後から針金を用いて付け足すようですし、彩色が一番コツを要する部分かも知れません。マニュアルがあれば、ちょっとやってみようか、などと思ったりします。
舞台を飾る鳥たち。前回紹介した鶴や鳳凰では、どうもバードカービングという呼び名に馴染みませんが、今回紹介する鳥たちは、大変よくできたカービングです。
【伊勢町3丁目舞台…野鳥たち】
伊勢町3丁目舞台は彫刻が少ない舞台です。もともとはほとんど飾りのない簡素な舞台だったと思われます。
この舞台は伝承で明治25年に坂巻儀平という大工により建造されますが、当初はどうやら二階屋根のない形態だったらしく、その後大正11年に立石利喜太郎を棟梁として改修され現在の姿になりました。この時、屋根とともに錺金具と小屋根の持送りに彫刻が追加されました。彫刻の作者は清水湧水(湧見・ワクミ)です。(舞台保存会だより27)
湧水による持送り彫刻はすべて野鳥を描いています。浅学にして鳥の名は知りません。ただ野鳥です。きっと清水家の庭に来て松や庭木に止まった野鳥の姿だろうと思います。
名は分かりませんが、実に生き生きとした鳥たちです。囀りの声が聞こえてくるようです。
清水湧水という人は間違いなく鳥が好きだったのだと思います。きっと毎日のように庭の鳥の姿を観察していたのでしょう。これは大正時代のバードカービングです。
(持送り彫刻の野鳥たち 後半の二羽は鷺とホトトギスでしょうか)
鶴や鳳凰などの意匠化された鳥の彫刻も悪くはありませんが、大好きな野鳥を見たままに写し取った、こうした鳥の彫刻は別して素晴らしいと思います。
【中町3丁目舞台…小鳥たち】
中町3丁目舞台もやはり前部の持送りに小鳥を描いた彫刻を搭載しています。
この彫刻、小鳥たちが本当に生きているようでその活気に魅了されます。花木の枝に群れ集う小鳥たち。文鳥に似ていますが、何鳥なのでしょうか。首の振りざま、親鳥が仔鳥に給餌をする姿も愛らしい。枝から枝へ飛び移りながら鳴き交わす、その羽音や囀りがはっきり聞こえてきます。
中町3丁目舞台は明治29年の建造ですが、大工をはじめ作者については全く分かりません。『こども四季遊び図』など印象的な彫刻もあり、特に彫刻作者は知りたいところです。しかし不明です。この持送り彫刻も同じ作者なのでしょうか。いずれにしても相当に腕のある、また感覚の優れた彫刻師だと感じられます。
なお、後方の持送りには松に鶴の図が描かれています。
【博労町舞台…鶏・水鳥、身近にいる鳥たち】
博労町舞台の彫刻は立川和四郎の作と伝承されてきましたが、昨年、諏訪市博物館で開催された『諏訪の工匠・立川一門』展で公開された下絵資料により、和四郎富昌と息子・専四郎富種の作と判明しました。(舞台保存会だより95)
一階手摺り部分の彫刻で、正面の鶏のつがいと右側面の水鳥(カモ)の図は富昌の、左側面の鷺とオシドリは富種の下絵があり、その作と思われます。
正面の鶏と右側の水鳥の図は富昌の特に好んだ図柄らしく、あちこちに姉妹作というべき彫刻が残っています。中でも半田亀崎の力神車に搭載された檀箱彫刻『鶏と海棠』は夙に有名です。両脇を強烈な力神に挟まれながら、まったく存在感を失わず、寧ろ力神を従えているようにさえ見える、素晴らしい構図の作品です。
シンプルにして圧倒的な生命感。富昌のサインのような彫刻です。
川に漁る水鳥(カモ)の図も、桑名の祭車や養老町の曳山に同じ図柄が描かれています。実に単純な絵ながら自然賛歌というのか、身の回りの自然の豊かさを感じさせる。
立川の彫刻は、霊獣や人物彫刻など圧倒的な迫力・存在感を示すものが目立ちますが、その一方でこうした身近な自然に材を採った豊かな印象の作品が数多くあります。下絵などにしても、自然の中にある動植物をリアルに入念に写したものが多い。
優れた芸術の基礎には徹底した自然観察と写実の精神が無くては適わぬのだ、ということを教えてくれます。
【東町2丁目舞台…鷲と鶺鴒】
東町2丁目舞台は大正7年の建造。これが少なくとも三代目の舞台で、初代の舞台は明治の初めに塩尻に売却され、二代目の舞台は明治の末に火災で焼失し、そのため現在の舞台が建造されました。大工棟梁は立石利喜太郎で彫刻は清水湧水。伊勢町3丁目舞台と同じコンビです。
前後の持送りに素晴らしい鷲の彫刻が施されています。猛禽らしく獲物を狙って挑みかかるような姿。その力強さは深志舞台彫刻の中でも屈指だと思います。
大正6、7年といえば清水虎吉が亡くなって間もない頃です。清水湧水は父の跡を継ぎ、独立した彫刻師として強い緊張感をもって仕事に臨んでいたことでしょう。その意気込みが伝わってくるような鷲です。
東町2丁目舞台にはもう一つ気になる鳥の彫刻があります。二階勾欄下支輪後部の彫刻で、鶺鴒(セキレイ)が描かれています。
この彫刻少し他のものと調子が違う。そもそも勾欄下の他の面には、「素戔嗚尊」「天孫降臨」「神武天皇即位」など神話場面が彫られているのに、後部だけ「鶺鴒」とは奇妙なこと。どうやらこの彫刻は別の由緒があるようです。先代舞台のものらしい。
東町の先代舞台は明治45年の大火で焼けてしまいましたが、舞台は分解保管していたため一部の彫刻が焼け残りました。それが現在の舞台に使われていると伝承されています。
どの彫刻、と明確になってはいませんが、おそらくこの鶺鴒の彫刻でしょう。
(修復後の彫刻 なんと鶺鴒が一羽増えています)
(鶺鴒の脚だけは残っており本体は欠損した模様、修復に際し大工さんが付け足してくれました)
災難を潜り抜けてなお新しい舞台に残り、舞台を守る鶺鴒の彫刻。特別に懐かしい心持で見上げます。鶺鴒はバードカービングでも特に人気のキャラクターでもありますし。
【養老町 高田西町曳山…鷹と鸚鵡】
岐阜県養老町に高田という地区があり、毎年五月の中頃に「高田祭り」という祭が行われます。3台の大きな曳山が曳かれますが、そのうちの一台、西町の「猩々山」は立川和四郎富昌の彫刻で飾られており有名です。
その脇障子彫刻『松に鷹』『石榴と鸚鵡』を見たくて、数年前高田祭りを訪ねました。
果たしてこれが本当に人の手で彫られたものなのか、これほどの技術と表現力があるものなのか、こんな木彫があることが信じられない、そんな彫刻でした。
深志舞台とは関係ありませんが、究極の鳥の彫刻として紹介しておきます。