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舞台保存会だより103 竜笛台の彫刻(つづき)

竜笛台の彫刻(つづき)

昨年の春、古川を訪ねた際、竜笛台屋台には清水虎吉の彫刻はありませんでした。

屋台の由緒札にもパンフレットにも彫刻作者は『清水寅吉』と記されているのに、なぜ虎吉の彫刻がないのか。理解できず、キツネに抓まれたような心持でした。

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(屋台蔵の中の竜笛台 平成27年4月)

棟札にも字体こそ違いますが彫刻は『清水乕吉(トラキチ)』と墨書されていますので、建造当初は間違いなく虎吉の彫刻が載っていたはずです。それはどこに行ったのか、何時すり替わってしまったのか?

さらに町の古老は、「昔はあまり彫刻のない地味な屋台だった」と言う。

頭の中を整理しながら帰途に就きましたが、やはりよく解けませんでした。

ただ、こういうことがあるかも知れないという予測も脳裏にはありましたので、やはりそうだったのか、という思いがありました。というのは竜笛台の彫刻について、立川流ではないという意見があることを、以前に聞いていましたので。

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(間瀬恒祥先生 半田亀崎の潮干祭りで)

それは半田の間瀬恒祥先生です。間瀬先生は平成19年9月に竜笛台の彫刻を調査されていますが、結果、立川流の彫刻を確認することはできなかったと、再興立川流彫刻後援会の機関紙『立川傳人』第21号の中で報告しています。ちなみに間瀬先生は立川流彫刻研究所主宰で、立川流彫刻研究の第一人者です。

私はそれを読み、間瀬先生は立川流彫刻の規格について厳格すぎるから、虎吉の彫刻に難点を見出し、辛い点をつけたのだろうと考えていました。しかし、実際に竜笛台を見ると、確かに立川流は片鱗も窺うことができません。清水虎吉ともまったく違う彫でした。

間瀬先生が清水虎吉や原田蒼渓の彫刻を見たいと、深志舞台を訪れたのは平成22年の春です。今にして思えば、間瀬先生は竜笛台の作者として名を留めている清水虎吉とはいったいどういう人物なのだろう、本当に立川流といえる匠なのかと、それを確認することが目的だったのだろうと思います。間瀬先生の虎吉彫刻に対する評価は、波や雲の造形についてなかなか厳しい指摘がありましたが、立川流の彫であることを否定するものではありませんでした。(舞台保存会だより29)

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(小池町舞台にある清水虎吉の彫刻)

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(深志舞台を視察する間瀬先生)

しかし、そうすると竜笛台の彫刻の作者は誰なのか?幸い彫刻には何ヵ所か刻銘がありましたので、これは手掛かりになりそうです。下段の龍や鳳凰を描いた大型彫刻には『鐵堂』と読める銘が捺されています。作者の号に違いないとは思いますが、さすがに鐵堂だけでは誰なのか分かりません。

また、下段と中段の間の勾欄部分に施された唐子や鶴の彫刻には『市山玉香ノ刀』との刻銘がありました。これは作者当人の名前と思われます。市山玉香とは初めて聞く名前ですが、おそらく井波彫刻の作家ではなかろうか。これも調べてみる必要があります。

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(竜笛台下段の大型彫刻)

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(『鐵堂』の刻印) (これは「銕堂」銕は鉄の古字体)

松本に戻ると4月5月は春祭りのシーズンで、忙しく取り紛れておりましたら、5月の中頃、高山の長瀬公昭さんから久しぶりに電話がありました。何用かと思いましたら、清水虎吉について調べたいので資料が欲しいといいます。長瀬さんが清水虎吉を調べるとは珍しいことだなと思い、訊きましたら、古川の二之町若衆組から依頼されて竜笛台について講演をするのだといいます。偶然とはいえ図ったようなタイミングでした。

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(長瀬公昭さん 高山で)

「竜笛台の彫刻は清水虎吉ということになっていますが、今ある彫刻は虎吉のものではないですよ。だいぶ見ましたが、多分竜笛台のどこにも虎吉の彫はないと思います。」(私)

「やはりそうですか。以前間瀬先生を案内した時、これは立川流ではないと仰っていましたので、清水虎吉のことはよく判らないのですが、或いはと思っていました。」(長瀬)

「主な彫刻には『鐵堂』と読める銘が入っています。あれが作者だと思うのですが、まだ調べていません。」

「その件でしたら、私も調べています。市山玉香についてはいろいろ分かってきました。調査がまとまりましたら、またお伝えします。」

「お願いします。虎吉の資料については、坂下与八という人が本を書いていますので、それを送りましょう。」

そんな次第で、鐵堂や市山玉香については長瀬氏の調査に任せることにしました。長瀬さんは気にかかる匠がいれば、その仕事を追って飛騨の山中から県外まで飛び回って調べる人です。その情熱には脱帽のほかありません。(舞台保存会だより69

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(今年の2月 天井画の調査で伺った木曽の長泉寺で)

半年ほどして長瀬氏から講演録が送られてきました。以下は長瀬氏の調査による竜笛台彫刻作者に関する情報です。

まず『鐵堂』について。

これは石川県小松の彫刻師『村上鉄堂』と思われます。本名は村上九郎作、慶応4年(1868)小松町京町に代々続く彫刻師の家に生まれました。尋常小学校卒業後、父の下で修業し彫刻師の道に進みます。明治23年、石川県の勧めで第三回全国勧業博覧会に作品を出品。さらに明治26年、アメリカ・セントルイス万国博覧会に日本の彫刻代表として出展。テーマは「新田義貞、稲村ケ崎に宝剣を投ず」の場面だったそうで、その見事な出来栄えは彼の地でも評判を呼び、日本芸術の素晴らしさを世界に示しました。

翌年より富山県高岡工芸学校に勤務。教頭、校長を歴任し多くの後進を育てました。井波をはじめ北陸に彫刻の伝統が続いているのは、鉄堂の存在が大きいものと思われます。

鉄堂は研究熱心で、「稲村ケ崎」の制作にあたっても、波の様子を研究するため自宅から金石海岸まで往復五里(20㎞)の道を歩いて通うこと数十度、観察を重ねたといいます。もし竜笛台の彫刻が村上鉄堂の作であるならば、龍や亀の場面に描かれる波には、その観察が生かされているのではないでしょうか。

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(竜笛台の彫刻に描かれた波)

また本折日吉神社からの依頼で制作された傑作「群猿欄間彫刻」の制作にあたっては、依頼に応ずると早速二匹の猿を買い求め、自宅の庭を金網で囲って放し飼いにし、二か月にわたりその様を観察してから作に取り掛かったといいます。すなわち、リアリズムを重んじた近代的な精神の彫刻家だったといえるのでしょう。

小松市には村上鉄堂が彫刻を施した曳山もあるようです。いずれ見てみたいものです。

鉄堂は大正8年(1919)享年52歳で逝去しています。

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(竜笛台下段の彫刻)

次に市山玉香について。

本名は市山外次郎、大正2年(1913)生まれ、平成12年(2000)没。社寺彫刻を得意とした井波の彫刻家です。若い頃は大島五雲とともに社寺の工事に携わりました。多くの弟子も育てています。

そのお弟子さんによると、玉香は昭和20年代後半に2年ほど掛け、古川の屋台彫刻の仕事をしている。これが竜笛台のようです。

昇り竜・降り竜を見事に仕上げました。ふつうは下絵を描いて、それに基づいて彫るのに、玉香は粘土で竜の型を作り、それを見ながら木材を彫り上げていったといいます。

竜笛台の巨大な昇り竜・降り竜は、竜の背に市山玉香の刻銘があり、彼の作に間違いないようです。

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(竜笛台の昇り竜・降り竜)

古川二之町の古老は、半世紀ほど以前までは竜笛台は彫刻の少ない地味な屋台だった、と語っていましたが、かつてはこの竜がなく、それ故に地味に見えたのでしょう。

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(こちらは背面 見返りの竜)

さて、そうした次第で長瀬氏の調査により竜笛台の彫刻作者のことが判ってきました。村上鉄堂、市山玉香、この二人について作風など詳しいことは私には分かりませんが、彼らの仕事に間違いないでしょう。経歴を聞く限りでも、清水虎吉に勝るとも決して劣ることのない優れた彫刻師だと思います。

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(市山玉香の刻銘と 屋台中段勾欄部の彫刻)

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(玉香の唐子彫刻)

しかし、なぜ虎吉の彫刻が鉄堂や玉香に差し替ったのか?これが謎です。

このことについて地元には当然納得のいく説明はなく、確からしいことは何もありません。(何しろ今在る彫刻は清水虎吉の作ということになっているわけですから)

長瀬さんは、虎吉の彫刻は火災で焼失したのではないか、と推測しています。あり得ないことではありません。

飛騨古川では日露戦争中の明治37年に歴史的な大火に見舞われています。町が一つ消失するような火事で、古川町の記録に『全焼八二七戸、半焼九戸、倉庫納屋三十八棟、官公署四、寺院三。焼け残ったもの僅かに二十数戸』とあるそうですから、津浪並みの凄まじさです。

古川の町はほとんど炎に嘗め尽くされたわけですが、屋台はどうなったのでしょう。

屋台は土蔵倉に守られて無事だったものと思われます。飛騨の屋台蔵は文政期に江戸から技術が伝わり、火防は当然ながら様々な環境変化から文化財である屋台を保護する、もう一つの重要文化財と言われています。正面の巨大な観音式漆喰扉など極めて精緻に造られており、人の家は焼けても屋台を焼失させることはありません。竜笛台も無事だったようです。

しかし、彫刻は別の場所に保管されていて罹災してしまったのではないか?…それが長瀬さんの推測です。

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(屋台蔵と古川の街並み)

今でも組み上げ式の山車はそのようにしていますが、かつての山車・屋台は解体して蔵われており、彫刻は彫刻で専用の箱に保管されていました。それを基本的には一つの屋台蔵に蔵って置くのですが、スペースとか何かの理由で仕舞いきれず、別の場所に保管することがあったやも知れません。深志舞台でも嘗ては部材が各家に分けて保管されていて、そのうち一部の彫刻がそこから消えてしまった、というような情けない話も伝わっています。

あくまで推測ですが、虎吉の彫刻はそうした別の家などに保管されていたため、大火の犠牲になってしまったのではないか。

証拠も伝承もない仮説ですが、在ったはずの彫刻が跡形もなく消え、別のものに差し替えられた事情を考究するなら、大火消失説が最も合理的かも知れません。

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(清水寅吉の名を記した棟札と屋台の前に掲げられる由緒書き)

(この棟札に基づいて由緒書きが作られたため、虎吉の作になってしまったのではないか?)

その後、失われた彫刻を補うため村上鉄堂のもとに制作依頼があり、それがたぶん明治の後半から大正の初めころ。さらに戦後、昭和27,8年頃かと思われますが、屋台を一層賑やかに飾るため、市山玉香に依頼して昇り竜・降り竜と中段勾欄の彫刻が加えられた。

ところが間もなく二人の匠の名前は忘れられ、やがて由緒書きを作成する段に、棟札などの記載から、彫刻作者は清水寅吉の名前が残ってしまった。

納得のいく筋書きは、そういう経緯ではないかと思われます。

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(竜笛台屋台)

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(今年の古川まつり風景)

それにしてもその経歴を見ると、村上鉄堂も市山玉香も、清水虎吉より寧ろビッグネームで、影響力も大きい人物のように感じられます。彼らの名前が出ないのは竜笛台にとって残念なことでしょう。

老婆心ながら古川弐之町下組に於かれては、玉・鉄二人の匠名を表にしていただき、虎吉の名は屋台の歴史の一齣に留めていただければと希望します。

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