舞台保存会だより101 飛騨古川まつりを訪ねて
飛騨古川まつりを訪ねて
既に半年近くを経過してしまいましたが、この春4月20日に松本深志舞台保存会の「山車まつり視察ツアー」にて、飛騨の「古川まつり」を訪ねてまいりました。保存会員ほか22名の参加。幸いの好天に恵まれ、隣国飛騨の春祭りを楽しんできました。
保存会主催の山車まつりツアーは、今回で5回目になります。しかし、これまではすべて秋や冬の祭りで、春祭りに出かけるのは今回が初めてです。春は年度始まりで、当保存会も5月か6月に総会を開催しますが、春祭りはその時点でたいてい終わっていますので、いつも企画の候補から外れていました。しかし、寧ろ春にこそ素晴らしい山車まつりがたくさんあります。今回は昨年の暮れ、保存会の理事会に諮って計画を進めました。
4月20日朝、例によって伊勢町Мウイング前より松本市のバスに乗って出発しました。安房峠を越え、飛騨に入ってゆきます。信州の険しい山渓の表情は消えますが、嫋やかな山々がどこまでも続きます。
飛騨というところはどこまで行っても山の中。山峡が幾重にも連なり、浩濶な地形というものがありません。高山がわずかに盆地の態をなすのみ。飛騨という国名は「山襞のなかの国」という意味だったと思います。
その山襞のなかに、小舟のようにぽつりと開けた町が古川です。同じ飛騨市の神岡などもそうですが、山の狭間に忽然と現れる小さな都市は、限りなく懐かしさを感じさせます。オアシスに巡り合ったような感じ。交通の発達した現代では解りにくいことですが、人の足と牛馬ぐらいが交通手段だった古い時代には、こうした山間の小さな都市というものは、周りの山地に住む人々にとって本当に心と文化のオアシスだったのだろうと思います。
古川まつりは町の東北に鎮座する若宮気多神社の例祭で、毎年4月19日20日に斎行されます。屋台の巡行はもちろん見ものですが、19日の夜から20日の未明にかけて行われる『起し太鼓』は夙に有名です。映像でしか見たことがありませんが、夜半に下帯姿の男衆が起し太鼓と呼ばれる巨大な太鼓の周りの群がり、打ち鳴らしながら古川の街中を練りまわるという激しく情熱的な祭りです。「起し」とは、冬の眠りに閉ざされていた大地を「打ち起す」という意味でしょうか。雪と冬に閉ざされていた飛騨の人々のエネルギーが、春を迎えて一気に花開く、そういう祭りなのだと思います。
以前対談で、高山の長瀬公昭さんが語っていましたが、飛騨の人々の春を待ち焦がれる気持ちは非常に強く、その表現が春の高山祭であり古川まつりであるとのことでした。高山の屋台があれほど豪華で華やかなのも、その情熱の表現なのでしょう。
古川まつりは「動」と「静」の祭りと言われ、夜行われる起し太鼓の「動」に対して、昼の屋台巡行は「静」の祭りということです。夜は激しいはだか祭、昼は雅な山車まつりという、たいへんに振幅のある祭りということになります。見る人々にとっては見どころ多く、堪能する祭りといえましょうが、当事者にとってはどうなのでしょうか。祭りというものは多かれ少なかれ異常な精神状況を体験するものですから、特に起し太鼓のような激しい練りがある祭りでは、このギャップを乗り越えて祭りを完遂するというのは、なかなか大変のことであろうと思います。飛騨の人々の祭りへの情熱がそれをも可能にしているということでしょうか。
古川の町に到着したのは午前11時ころでした。市役所の駐車場にバスを停めさせていただき、さっそく街に繰り出します。香具師の出店が立ち並ぶホコ天の通りを、お囃子や獅子が練り歩き、なかなかの繁盛です。気多神社から降りて来たのでしょう、神輿行列も巡ってゆきます。町の人は大人から子供まで何かしら役を負っているようで、町全体から祭りの緊張感が伝わってきます。この二日間は一年でも最も大切な日、聖なる日、という高揚した緊張感です。松本辺りでは注連縄は廻らされていても、こういう緊張感はありません。
その中を屋台が粛々と曳かれてゆきます。古川まつりの屋台巡行は両日行われますが、二日目の本祭りでは、9台の屋台が列をなして街中を曳かれます。さっそく後を追うと、軒の低い古川の町筋を、三層建ての煌びやかな屋台がゆらゆらと進み、鄙と雅が入り交じった、なんとも優美な時代行列が繰り広げられていました。
日本各地に山車行事は多く残っていますが、山車自体は江戸の古い様式をとどめていても、町はたいていビル街に変わっています。ところが古川は、町自体もかつての姿をとどめていますから、景色がなんとも趣深い。いったい古い時代の人々も全くこのように山車祭りを見、その風情を楽しんでいたのではないかと、タイムスリップに近い錯覚を抱かせてくれます。
更に屋台を迎えた通りの先には飛騨の里山が間近に聳えています。屋台・街並み・山、これほどロケーションの整った山車まつりは滅多にないでしょう。
弐之町という通りを進んだ屋台行列は、荒城川に架かる「いまみやばし」という橋の手前で止まり、各屋台は曳き綱を収めて周りに囲いを取り、休止しました。先頭の神楽車が楽を奏し、朱の欄干に擬宝珠を飾った橋の上では獅子舞が始まります。弐之町に長く並んだ屋台を、ゆっくり観覧することにしました。
古川の屋台は9台。まことに適当な台数だと思います。高山は確か春が12台、秋が11台だったでしょうか。深志舞台の16台というのは、いちいち見るのが嫌になる数です。
屋台の形態はほとんど高山と変りません。三層建で、テリ型屋根。中段には赤の幕を巡らせ、見送り幕も気合の入ったものが多い。錺金具や瓔珞は、高山ほど豪華ではありませんが、要所に施されています。
彫刻は上層の支輪部に極彩色の花の彫刻が施されるのもお約束どおり。下層の彫刻はほぼ素木で龍や麒麟、唐獅子など霊獣を描いたものが多く見られました。彫刻については高山より寧ろ盛んではないでしょうか。ほとんどの屋台が各所に装備しています。
その彫刻は井波彫刻が多い。中でも大島五雲の名が目につきます。大島五雲は松本本町1丁目舞台の彫刻作者ですが、高山ではその名を目にしなかったように思います。しかし、古川では井波彫刻が圧倒している。わずかな距離ですが高山より北に位置する古川には、北陸の文化が色濃く流れ込んでいるようです。
ちなみに大島五雲は井波彫刻を代表する大家で、文久元年の生まれ、昭和12年の没(1861 ~1937)。この人は初代。立川和四郎と同じく五雲を襲名する子孫が続き、それぞれが多くの弟子を育て、現在に連なる井波彫刻の伝統を築いています。
初代大島五雲は明治から大正期に活躍しました。富山を中心に北陸には彼の作が多い。古川の屋台彫刻もその手になるものと思われます。
中に一台、彫刻作者が『信州諏訪の人 清水寅吉』とされるものがあります。諏訪と記されていても松本の清水虎吉です。実はこの彫刻が問題なのですが、この件については次回に回したいと思います。
由緒札を見てゆくと、古川屋台の歴史は意外に古く、江戸時代前期に遡るものもあるようです。屋台自体も高山から譲られてきたもの、何度も改築を重ねて現在に至っているもの、さまざまですが、多くは明治から昭和にかけて現在の姿に整ったものが多いようです。特に塗や金具、彫刻などは近代の仕上げでしょう。
それにしても山間の小さな町で、どうしてこのように見事な屋台が何台も建造できたのか。高山のように凄い豪商がいたとも聞いていませんが、不思議なことです。推測ですが、工女たちのもたらした富が関係しているのではないでしょうか。
明治中葉から昭和の初期にかけて、信州では岡谷を中心に製糸業が盛んでした。日本の工業の中心でした。そして多くの飛騨の若い娘たちが野麦峠を越えて糸繰りの女工として働いていたのは周知のこと。彼女たちの労働は絹糸となり、当時日本最大の輸出品として国家を支えました。
一方で彼女たちはその稼ぎの大半を飛騨の家に貢ぎ、その額はしばしば実家の年収を大きく上回ったといいます。古川周辺は多くの工女を信州に送っており、彼女たちが運んでくる現金は古川周辺に相当の景気を齎しました。工女が帰郷する年の暮れには高山や古川の町は高揚し、初市では猪札(十円札)が飛び交って、商家は釣銭の手当てに困ったといいます。こうした景気が古川の町に流れ込み、豪華な屋台に昇華したのではないでしょうか。
山本茂実の「ああ、野麦峠」や「高山祭」を読んでいて思いついたのですが、飛騨にあっては相当にありうる話と、推察してみる次第です。
工女たちの姿が重なると、古川の屋台はまた別の輝きを放って見えます。
旅の終わりに若宮気多神社に参拝しました。気多神社は町からわずか離れた山の中腹に鎮座しています。
石段を登り訪ねてみると、例祭日にもかかわらずお宮はひっそりと静まっています。社務所に御朱印係の婦人が一人いるのみ。宮司さん以下は神輿巡行に従っているのでしょう。
高台の神社からは、古川の町が一望されます。穏やかな山並みの中、実に好ましい姿です。飛騨の山間にこのような町を布き坐す神は、幸せな神様だと感じました。