舞台保存会だより99 登城行列と天神まつり
登城行列と天神まつり
深志神社と舞台にとって夏は祭りの季節。舞台保存会も7月25日の天神まつりを睨んで、事業が動き始めます。殊に今年は2年に一度、歌舞伎がやってくる年。松本の夏が大歌舞伎に染まる年です。歌舞伎のある年はなぜか人数が増えるというジンクス?がある『祭囃子伝承スクール』は、48名という多くの参加者を得て6月18日から始まりました。
『信州まつもと大歌舞伎』は平成20年が最初で、今年で5回目。『お囃子スクール』も平成20年からで、今年は8回目の開催となりました。そして歌舞伎のある年はスクールの子供たちを乗せて深志舞台が役者さんの顔見世パレード『登城行列』に参加します。これも初回からですっかり松本歌舞伎の恒例行事となりました。
平成20年の初回の歌舞伎、そのお練り行列はなかなか大変でした。歌舞伎は東京や京都・大阪など大都市の専門劇場での上演が専らで、地方興行はあまり例がありません。だから初めて興行を行う町では、『お練り』と言って顔見世のパレードを行うのが仕来りなのだそうです。当時、故中村勘三郎が率いて「平成中村座」と称していましたが、平成20年が松本の初興行で、その「お練り」をやることになりました。
(本町・松本郵便局前に進む飯田町2丁目舞台と六九町舞台)
(2台とも本来はこの辺を通行することはないのです)
市の文化振興課が中心になって実行委員会を立ち上げ企画会議を催しましたが、何をどのようにやってよいのか皆目わかりません。数年前にあった金毘羅歌舞伎の様子などを参考にして計画を立てました。役者さんが人力車に乗って行くことも初めて分り、県の内外から先ずは力車集め。舞台は松本らしさを出したいという演出で、行列を先導することになりました。せっかくだから舞台に役者さんに乗ってもらってもよかったのですが、これは㈱松竹から断られました。(二階に乗って、もし落ちでもしたら危ないからと…)
金毘羅歌舞伎お練りの写真を見ると、先頭を歓迎の言葉を書いた横断幕が進みます。これをやろうということでしたが、横断幕ではメーデーのデモ行進のようで如何にも拙い。
「横じゃなくて、縦の大幟を仕立てたらどうですか。」と提案しましたら、これが採用され、その後まつもと歌舞伎の制式として定着しました。天神祭り神輿渡御の先導幟を流用したものですが、なかなか風格があり、行列後も公演中は芸術館に飾られ儀容を高めています。
平成20年7月5日のお練りは忘れられません。公式発表で市内に集まった観衆が5万人とのことでしたが、雰囲気はその倍以上。沿道は人で埋め尽くされ身動きも取れないほどで、歓声嬌声が響き渡り、凄まじい熱気でした。
感激した勘三郎が、公演の終わる前から、「また松本に戻ってきます。」と宣言し、さらに「あのお練りをまたやりたいね。」とリクエストがあったため、まつもと歌舞伎の定期化と、その都度のお練り行列が決まりました。
なお、歌舞伎の世界で『お練り』というのは、初興行の際に一度だけ行うのが決まりだそうで、2度目はもうお練りとは言えません。そのため以降は『登城行列』と称することになりました。松本以外ではこんなこと何度もやらないということでしょう。
(平成20年 初めての「お練り」の様子 本町3丁目「花時計公園」より出発)
今年の出場舞台は抽選で決まり、飯田町2丁目舞台と六九町舞台の2台でした。飯田町2丁目舞台は二階に「蘭陵王」の人形を積載し、なんとなく歌舞伎に相応しい。六九町の舞台は平成25年に修復を終えたばかりで、未だ輝いています。
悩んだのは舞台に乗せる子供たちです。今年はスクールに48人も集まってしまい、2台の舞台ではとても乗せきれません。往き帰りを別けて、とも考えましたが、六九町はそのまま町に帰ってしまうので乗れるのは往きだけです。仕方なく今回の舞台上乗は4年生以上、ということにして、低学年の子たちには参加を見合わせてもらいました。飯田町2丁目も六九町も中型の舞台で、よく乗せても子供15人ぐらいというのがキャパですから、やむを得ないところでしょう。
そんな次第で7月10日、好天のもと登城行列は無事に行われました。石塚栄一新舞台保存会会長の出発の合図で、行列は本町からお城へと進みます。舞台もお囃子の音を響かせながらゆっくりと行列を先導しました。沿道は人垣ができ、初回時の熱気には及びませんが、やはり歌舞伎を迎える市民の歓迎は素晴らしいものです。松本城天守閣前での「市民ふれあい座」では、スクールの子供たちによるフラワーセレモニーもあり、参加した子供たちは十分楽しんだことと思います。
松本の大歌舞伎は2年に一度やってきます。平成30年の登城行列には、ぜひ全員の子供たちを連れて参加したいものです。
2週間後、7月24日25日は平成28年度の深志神社例大祭「天神まつり」でした。24日の夕刻には舞台も16台がすべて社前に並びます。一昨年ですべての舞台が改修を終え、ひときわ鮮やかな姿。見慣れたとはいえ心弾む光景です。宵祭りは例年のごとく賑やかに和やかに催され、提灯を灯した舞台の中から、晩くまで笛の音や町の人たちの声が響いていました。
ところが翌25日は天候が不安定で、舞台行事は悩ましいものとなってしまいました。午後2時過ぎから驟雨があり、降ったり上がったり。町の舞台年番さんたちは、そのたびに舞台に駆け上がり幌を掛けたり外したり大忙しです。お囃子スクールの発表会の後も不安定な天気は変わらず、三時半からの舞台発御では、いくつもの舞台が幌を掛けたまま曳かれてゆきました。
天神まつりは屡々雨祭りです。天神さまは雷神ですから、これも仕方ありません。しかし、雨だからと言って舞台を出さないということはありません。
国の文化財に指定されているような有名な山車まつりには、雨が一粒降っても山車屋台を仕舞ってしまうというところもあるようですが、深志舞台は幌を掛けてでも神前に出します。松本の人間が特に崇敬信厚いというわけではなく、雨や日差しも舞台には仕方ないことと割り切っているようです。
「あの年はえらい目に遭ったね。」
そんな会話が交わされつつ、舞台も町も年輪を重ねてゆきます。
終わってみると何となく来年が待たれる天神まつりと舞台行事でした。
天神まつり終了後、今年はさらに舞台行事が重なりました。7月28日29日に市内で『日本人間ドック学会』という医療関係の学術大会があり、その参加者の移動経路に深志神社境内を使うこととなったのですが、就いては松本の文化を紹介するため舞台の展示を、と要請されたのです。
(7月28日 境内に置かれた舞台 本町3丁目 本町4丁目 飯田町1丁目舞台)
松本のアピールになることですから保存会としては協力することとなり、両日とも3台の舞台を境内に展示しました。すぐ隣には大会のホストである相沢健康センターの皆さんが縁台を張り、涼やかな休息所を設えました。市民芸術館でのシンポジウムを終えた参加者たちが、珍しそうに舞台を眺めて通ります。舞台をバックに記念写真を撮る人もいます。
ひと月に3度も行事があり、多忙な夏となりましたが、舞台は天神まつりの大仕事を終え、暫し憩いの時を過ごしているようにも見えました。