舞台保存会だより91 二木・一日市場の舞台
二木・一日市場の舞台
前回紹介した三郷の三柱神社には、境内に少し変ったブロンズ像があります。笙を吹く甲冑姿の武人と向かいに端坐する若者の像。これは「新羅三郎 笙の秘曲伝授」とされる有名な歴史場面です。武人は新羅三郎源義光、若者は豊原時秋といい、平安時代中頃の話になります。
なぜこのような像が神社の境内にあるかというと、新羅三郎が三柱神社の祭神であるからで、その由来については前回のたよりをご参照ください。(舞台保存会だより90)
(三柱神社境内のブロンズ像 平成17年に氏子の二木氏有志により建立されました)
新羅三郎源義光は源頼義の三男・八幡太郎義家の弟であり、優れた武将でありましたが、同時に笙の名手として堂上にも名高い風流人でした。彼の師は楽家の豊原時元で、義光は多くの曲を伝授されていました。ところが時元が早く亡くなったため、その子・豊原時秋は大曲『太食調入調』を授けられませんでした。義光は伝授されていました。
やがて奥羽に後三年の役(1083~87)が起こり、義家が苦戦していると聞くと、義光は兄を助けようと奥州下向を願いますが許しが出ません。朝廷は寧ろ笙の名手を惜しんだのでしょう。そこで義光は官職を辞して、一人東へ下りました。
それを知った豊原時秋は、義光を追って自らも東へ向かいます。近江の鏡の里で義光に追いついた時秋は「ただ御供仕(オトモツカエマツル)べし」と言って義光に従いました。戦さに向かう旅ですから義光は帰るよう諭しますが時秋は聞きません。黙って義光の後に従います。そのまま付き従って関東の足柄までやってきました。
当時、足柄には関があり、厳しい関所として知られていました。義光は重ねて引き返すよう命じますが、時秋は諾いません。
時秋の胸中を察した義光は、足柄山中に柴を切り払うと、楯二枚を敷いてそれぞれに自分と時秋を座らせ、靭(ウツボ)から一紙の文書を取り出して示すと、
『「父時元、自筆に書きたる太食調入調曲譜、又笙はありや」と時秋に問ひければ、「候」とて、ふところより取り出だしたりける、用意の程まずいみじくぞ侍ける。』(古今著聞集)
義光は自ら笙を吹いて曲を授けました。朧月の掛かる夜半であったといいます。
授け終えると義光は、それぞれその職とする道を全うすべきことを説いて時秋を都へ帰し、自らは奥州に向かいました。
境内のブロンズ像はこの笙の秘曲伝授の場面です。「古今著聞集」に記されたこの話は古来有名で、多くの歴史画や詩にも描かれました。芸道譚として優れていますし、何といっても場面がきれいです。また、技術や文化の伝承を尊ぶという、日本人が古来より大切にしてきた精神の琴線に触れるものがあります。
(雅楽・笙の譜 『太食調入調』は『太食調調子』の一部ではないかと言われている)
(小池町舞台の勾欄下彫刻「新羅三郎 笙の秘曲伝授」清水寅吉作)
雅楽というものは基本的に口承による伝授で、師匠から弟子へ主に唱歌によって伝えられていきます。譜というものもありますが、あくまで補助的なものに過ぎず、口伝と実技が伝承のすべてです。すなわち時秋は義光の吹く笙の音をこの場限りに暗譜し、脳裏に刻み込まなくてはなりません。その緊張感がこの場面の肝と謂えます。
時秋は秘曲を習得して奈良時代以来とされる楽家を継ぎ、その子孫も現代に続き、伝統の雅楽を伝えています。
さて、三柱神社の本祭りには、二木の昼舞台と一日市場の舞台が曳かれてきます。二木は地元ですから舞台庫も境内にあって町内を一巡りしてから曳き込みますが、一日市場は遠く、1㎞近く県道を曳いてお宮にやってくるようです。そして、神社鳥居前の鍵辻で出会い、総代さんの差配であいさつ。仁義を切っているんでしょうね。一日市場の舞台から先に鳥居をくぐって境内に曳き込みます。
この一日市場舞台は彫刻も多く大変立派なものです。作者は清水虎吉。明治36年に900円余で建造されています。
一日市場の舞台は松本の舞台に比べると一回り小さいのですが、安曇の標準よりは大きく、それは神前で二木の舞台と並ぶとよく分かります。そして、何より凄いのはその彫刻で、いたるところに施されているばかりでなく、それぞれが立体感を強調して彫られているため、遠目にも舞台が膨らんで見えるほどです。
さらにその彫刻の大半は人物彫刻、それも『二十四孝』です。
二十四孝は立川流が得意とした題材で、中でも虎吉の師匠・立川専四郎富種は能くしました。里山辺湯之原町のお船や中野市常楽寺の本堂欄間彫刻など、驚嘆するような作品がいくつもあります。(舞台保存会だより34、36)
専四郎の弟子であった虎吉はやはり二十四孝が大好きだったらしく、舞台ばかりでなく社寺彫刻にも二十四孝を刻んでいます。しかし時代も明治半ばともなると、封建的な臭いのする二十四孝はもう選ばれない題材で、はっきり言って誰も彫りません。時代は古事記や太平記のエピソードが人気になっています。
虎吉がなぜそれほど二十四孝を好んだのか、理由は解りませんが、師匠たちが築いた構図があまりに見事で、ドラマ画面として完成されていたからでしょう。立川流の匠とは云え明治ともなれば社寺建築の請負は多くはありません。彫刻の仕事を任された時、題材は少し古臭くとも、やはり二十四孝を彫ってみたかったのでしょう。
(一日市場舞台彫刻 二十四孝) (一日市場舞台彫刻 二十四孝)
(一日市場舞台彫刻 二十四孝) (古好斎(虎吉の号)の刻銘が見える)
それにしてもこの一日市場舞台の二十四孝図は大変です。何がと言って、その数が。二階勾欄下の支輪部に4面6景、一階手摺に5場面、さらに持送りにまで4景あって、二十四孝だけで合計15景が描かれています。大きな社寺の蟇股などならともかく、小さな山車の中にこれだけの数を刻み込むとは、ほとんど偏執狂的と言えます。
出来映えもなかなかのもので、特に支輪部の彫刻は舞台から張り出さんばかりに肉厚に彫られているため、人物と場面が実にダイナミックです。こういう彫刻を見るのは舞台観覧の醍醐味と言えます。
明治36年は有明山神社裕明門の造営もあり、清水虎吉にとっては充実した年でした。彼は裕明門にも二十四孝の大判彫刻を4面彫っています。
しかし、さすがに堪能したのでしょう。その後はもう二十四孝を彫ってはいないようです。
一方、二木の昼舞台は一日市場舞台より一回り小ぶりですが、相当古いものと見受けられます。江戸時代の中期でしょうか。原型を思わせる舞台です。
装飾は一日市場舞台に比べると控えめで、彫刻も金具も多くはありません。しかし、彫られている竜などはなかなか立派なもので、職人の手の良さを感じさせます。唐獅子や手摺りの波千鳥も味わい深い。派手さはありませんが、見るほどに感心する舞台です。
安曇地方に残る古い舞台を見ると思うのですが、立川流とか大隅流とかメジャーな名はなくとも、江戸の職人の仕事というのは実に立派なものです。彼らはほとんど名を残していません。しかし仕事は永く残ることを知っていました。入魂の作という言葉がありますが、もし人の魂がこの世に残るならば、職人の魂はこうした仕事の中に残っているのかも知れません。
さて、舞台は子供を満載して一日市場舞台、二木舞台と神前に進んで並びます。こんなにたくさんの子供たちを乗せられて、幸せな舞台です。ひとしきりお囃子をすると子供たちは舞台から降りて境内で休憩へ。祭典中は舞台行事はありません。
やがて拝殿での神事が終わると、また子供たちが舞台の周りに集まり、境内は賑わいます。舞台ではそれぞれに記念写真を撮り、子供たちの声が響き渡ります。
やがて、祭りの余韻を乗せて舞台は出てゆきます。出てゆくのも、一日市場、二木の順。二木は地元なので、少し一日市場に譲るところがあるようです。
そして、鳥居の外で再びあいさつ。よく県外の山車行事では「泣き別れ」とか「曳別れ」とか言って、山車別れの行事がありますが、それに同じ行事でしょう。また来年を期して、舞台はそれぞれの道に別れて行きます。
境内では五つ灯籠をたたみ、幟を降ろし、祭りの後片付が始まります。