舞台保存会だより83 小池町舞台について
小池町舞台について
天神まつりに曳かれる16台の深志舞台の中で、どの舞台が最も幸せな舞台か?
そんな希代な設問はありませんが敢てするなら、それは小池町舞台ではないかと思います。
なぜというに子供が多い。毎年7月24日の宵には、次々と舞台が曳き込まれてきますが、溢れるほど子供が乗っているのは小池町の舞台だけです。覗き込むと満員電車のように子供たちが折り重なっています。
(小池町舞台の境内曳き込み 平成26年は天満宮御鎮座400年祭でした)
そうでなくとも小池町のは大型の重い舞台で、境内での舞台曳き込みには苦労していますから、小池町の前町会長で舞台保存会会長でもある関口さんに、
『もう、子供は降ろしましょ。』と勧めるのですが、
『いやだ。』と言って聞きません。子供を乗せたまま境内の玉砂利を抉って、ギリギリと舞台を定位置に曳き付けます。舞台にとって子供は宝物。所定の位置に据えるまで意地でも降ろしたくないのです。
(平成25年の曳き込み風景 この年は天候がぐずついていました)
近年、舞台町会にとっての悩みは都市ドーナツ化現象による人口減少と高齢化、そして子供がいないことです。曳手不足にはどの町会も悩んでいます。しかしそれ以上に深刻なのは子供の減少です。深志舞台にとって子供はご神体のようなもの。主の乗らない車を曳くことは、祭りではなく只の労役に近いものがあります。
子供を産み育てる世代が街中に住まなくなったことがそもそもの要因ですが、いったいどうしたことでしょうか。もう10年近く学校へ通う子供がいない、という町会がいくつかあります。それでもどこから調達してくるのか、たいていの舞台は祭に子供を乗せてきます。子供を乗せていない舞台は『空車(カラグルマ)を曳く』と言って軽蔑されるのです。
(舞台の内部 奥で大太鼓を叩いている子供はずいぶん体格がいいですね!)
その点、小池町舞台はリッチなものです。小学生だけで20人ほど、園児も含めれば30人近い子供が乗ります。昭和30年代のよう。他町会からは垂涎の的です。
要因はマンションです。小池町には大型の比較的新しいマンションが三棟もあり、ここに若い世代が多く住んでいます。その子供たちが舞台に乗り、親たちは舞台を曳いて祭りに参加しているのです。はみ出すほど子供が乗り、太鼓を叩き、大人たちが掛け声をかけて力いっぱい曳く。こういうことが舞台にとって幸せなのだと思います。
(天満宮御鎮座400年祭 小池町舞台が動き出し、社頭でお祓いを受ける)
(社頭でご祝儀を渡す関口さん 現在深志神社氏子総代会の副会長でもあります)
さて、この小池町舞台ですが、明治27年(1894)の建造とされます。町内の記録によれば、27年の7月に建造を決め、翌28年9月に竣工したとのこと。比較的短期間に建造されています。おそらく新舞台建設のことは先立つ数年前から議論され、合意とともに建設に執り掛かったのではないでしょうか。
するとそれ以前の舞台のことが気にかかります。しかし先代の舞台については記録も伝承もなく、推測ですが明治21年の大火で焼失したのではないかと考えられます。というのは舞台と一緒に舞台庫も新築されたことが判っているからです。舞台を新造し、舞台庫も建て、小池町という町はもともと職人町で、凄い資産家が住んでいたという話も聞きませんから、町民にとってはたいへんな事業だったのだろうと思われます。
小池町舞台の建造で面白いのは、建設に携わった棟梁が複数いることです。笠井家の伝わる「舞台新築人名簿」の会計帳には「中村甚平他六名宛」として295円が支払われたことが記されています。別の資料でも「大工棟梁 町内大工七名(中村、中村、加藤、千野、坂巻他二名)」とされ、町の大工が総出で造り上げたということになっています。七人の侍ならぬ七人の大工ということですが、「町の大工が総出で」というのは、なんともほのぼのとしたものを感じます。
塗や金物も町内の職人が受け持っているようですし、小池町は職人町ですから、
『よーし、俺たちの舞台だ。どうだ、みんなひとつ力を合わせて拵えようぢゃねえか。』
というような気合で始まったのではないでしょうか。
今でも小池町は職人さんが比較的多く住む町ですが、舞台と町の人々との一体感が強いのも、この町の気風のように感じられます。
(修復前、平成8年ごろの小池町舞台 とにかく緑色の幌が印象的でした)
この小池町舞台が平成の舞台修復事業で全面改修したのは平成17年~18年のことでした。建造から110年ぶりの大改修ということになります。松本深志舞台保存会が監修しての修復は、飯田町1丁目舞台に続いての2台目で、時の町会長は現在舞台保存会会長の関口隆男さんでした。
覚えていますが当時の小池町舞台は、漆の塗装も褪せ果ててぼろぼろの、本当にひどい舞台でした。二階屋根には恒常的に緑色の安っぽい幌が被せてあり(多分雨漏りがしていたのだと思います)、そのため屋根や鬼の形などまるで分りません。曳かれてゆく姿もよろよろと哀れで、修復が決まった時も、あんな舞台は修理するよりも、もう捨てて新しい舞台を造った方がよくはないか、と思ったものです。
しかし小池町の人たちは、この舞台に誇りを持っていました。
『うちの舞台は大きくて重いし、彫刻も多くて、まあ博労町の舞台と甲乙という舞台さ。』と。
大きくて重いのが苦労のくせに、舞台の自慢をする時は、まずそこから始まるのが舞台人の可笑しなところです。
また、博労町舞台と比較して、というのも深志舞台の或る基準で、そこには江戸の舞台である博労町舞台への尊敬と憧れがあるように思います。そして、小池町舞台というのはおそらく博労町舞台を意識して、博労町舞台を目指す理想として造られた舞台ではないかと思われます。
これまでも「明治初期の舞台」などで記してきましたが、江戸時代の後期に頂点を迎えた深志舞台は、明治時代に入り突如小型で簡素な造りになります。(舞台保存会だより72)
理由はよく判りませんが、舞台という祭道具が世の近代化と矛盾するアイテムと見做されたからだと思われます。大型の豪華な舞台は出場の機会を失い、仕舞われ、やがて売却されてゆきました。代わって極めて簡素な小型の舞台が曳かれるようになります。(本町4丁目、5丁目、伊勢町1丁目舞台)
しかし、あまりの簡素化への反発もあったのでしょう。豪華で華やかだった嘗ての舞台が懐かしまれ、明治も中期に差しかかると装飾豊かな舞台が復活してきます。それが飯田町1丁目や伊勢町2丁目、3丁目の舞台ではないかと思います。
これらの舞台は彫刻など装飾は盛んでしたがサイズはほどほどで、まず中型といった舞台でした。そうした中で一台だけ江戸時代のままの姿で曳かれている舞台がありました。それが博労町舞台です。
博労町舞台は江戸時代後期建造とされる深志舞台最大・最高の舞台です。現在ではサイズは本町1丁目舞台に譲りますが、重量、風格は他15舞台を遥かに凌駕します。彫刻は立川和四郎とされ、当然ながらこれも別格の出来栄えです。
明治に入って本町筋の大型舞台が運行を停止する中、どうして博労町舞台が曳かれ続けていたのか?理由はよく解りませんが、博労町は街外れだったので、大型舞台を曳き回してもあまり問題にならなかったのかも知れません。(嘗ては別に簡素な舞台があったとも聞いています)
いずれにせよ明治半ばで残っていた江戸の大型舞台は、博労町舞台だけでした。そしてその曳行は舞台文化の盛期の姿そのままに、舞台人の憧憬だったことでしょう。
(昨年の秋、神道祭で大名町に展示された小池町舞台) (同じく博労町舞台)
小池町舞台を見ていると博労町舞台が重なります。小池町舞台というのは博労町舞台をモデルとして、すなわち江戸の本格舞台の復活を目指して建造された舞台だと思います。明治も中期を過ぎると舞台に関する喧しい規制も緩み、殊に小池町辺りであれば道路規制もうるさくなく、思い切った舞台の建造が可能になってきたのではないでしょうか。
小池町舞台が博労町舞台を意識して造られていると感ずるのは、例えば「輪覆い」です。輪覆いは江戸期の松本舞台に特徴的な部品で、外輪となっている前輪を覆うカバーのような部分です。網代式のものが多く、安曇の古い舞台では、小型舞台でもよく付いています。もと本町2丁目の大町大黒町舞台や、池田町1丁目舞台、下波田の舞台も網代型輪覆いです。(舞台保存会だより21)
一方、博労町舞台の輪覆いは素晴らしい牡丹唐草彫刻で飾られています。後年製作される本町1丁目舞台や東町2丁目舞台も輪覆いに大型の彫刻が施され、舞台に風格と華やかさを添えています。そして小池町舞台の輪覆いはダイナミックな波頭文彫刻です。これは清水虎吉の作と思われますが、波のうねりが舞台を走らせる大車輪の動きを象徴して、たいへん素晴らしいものです。
輪覆いというパーツは実用という観点からするとおそらくない方がよく、その意味でギミックというか、過剰装飾的な部品ですが、舞台自体が装飾的な道具であることを思えば、見栄えがして、あれば自慢したくなる拵えです。
明治以降、輪覆いをつける舞台はありませんでしたが、小池町舞台はこれを復活させました。小池町舞台はもはや明治初期・中期の舞台を見てはいません。七人の大工が腕を競った結果でもありましょうが、博労町舞台という江戸の大舞台を隣に見据えながら漸く復活した本格舞台、それが小池町舞台なのだと思います。