舞台保存会だより80 伊勢町2丁目舞台の牡丹彫刻について
伊勢町2丁目舞台の牡丹彫刻について
(飯田町2丁目舞台立面図)
これは前回とりあげた飯田町2丁目舞台の図面です。平成18年の修復に際し、信州大学・土本研究室により作成されました。飯田町2丁目舞台は深志舞台の中にあってやや特殊な舞台で、他の舞台と形態や構造が違います。由緒にも謎を含んでいますが、図面にするとその違いが、よりはっきりと分かります。
比較のために典型的な深志舞台である伊勢町2丁目舞台の図面も添付してみました。足回りのほか、柱の数や全体のバランスなど、見比べていただけたらと思います。
なおこの2車は、車高はともにルーフラインまで4.3mほどで、ほとんど変わらず、車幅は飯田町がやや広く、車長は伊勢町の方が長く、それぞれ長短あるものの、ほとんど同サイズの舞台といえます。
(伊勢町2丁目舞台立面図)
ところでこの比較に用いた伊勢町2丁目舞台ですが、姿かたちは最もオーソドックスな、いわゆる深志舞台なのですが、その由緒にはやはり奇妙な伝承があります。飯田町2丁目舞台と同じく、他所から買ってきた舞台だといいます。
どこから?…飛騨高山から。
そんなわけで今回はこの伊勢町2丁目舞台をとり上げてみたいと思います。
(平成21年4月 修復直後の伊勢町2丁目舞台)
伊勢町2丁目舞台について、前回も引用した平成8年の「16町会舞台資料」によれば、
『明治25年に飛騨高山より古い舞台を購入し、その後改造を加えて明治35年ごろの完成した』と記載されています。大工棟梁は不詳、彫刻は原田蒼渓。
飛騨高山から購入した古い舞台で、しかも最も典型的な松本深志舞台?なかなか矛盾を孕んだ命題です。そもそも飛騨の山車といえば高山や古川の屋台を想像しますが、とても改造して深志舞台になるとは思えません。(逆は全く不可能ですが…)深志舞台と似た屋台があるとも聞いたことはないのですが、いったいどんな舞台を買ったというのでしょうか。
そこで「16町会舞台資料」のベースとなった町会からの提出文書を見てみますと、当時町会長であった的場文造氏の名で、次のような記述がされていました。
『明治25年(舞台の)新調を計画 資金調達準備し飛騨の高山市の古い舞台購入 町内に住む棟梁・彫刻家の原田蒼渓氏に改造・彫刻を依頼す 明治35年頃完成せし由』
(平成20年8月 修復解体前の伊勢町2丁目舞台)
元の「記述資料」と、それをまとめて整理した「記載資料」では屡々おこることですが、だいぶニュアンスが違います。明治25年は「新調を計画」した年で、古い舞台を購入した年はそれ以降となるようです。実際に購入したのは、或いは30年過ぎかも知れません。そして原田蒼渓が彫刻だけでなく舞台改造も請け負っている模様で、ならば大工棟梁としても名をとどめるべきでしょう。
ただ、原田蒼渓は木彫家として知られるものの大工としての建築の記録は伝えられておらず、実際に舞台建築の棟梁を務めたのは、別の匠だったのではないかと考えられます。飛騨の匠だったのではないでしょうか。山口権之正のように飛騨と信州を行き来して仕事をしていた大工であったら、適当な山車を探し出して斡旋し、改造することは可能だったはずです。
いずれにしてもこの舞台は『飛騨高山から購入した古い舞台をもとに、原田蒼渓が改造に携わり、明治35年頃に完成した舞台』とまとめるのが最も妥当でしょう。すると年代的には明治後期の舞台と位置付けるべきなのかも知れません。
(平成20年9月 舞台修理審査委員会にて)(松本建労会館実習室に展示ざれた舞台の部材)
それにしてもよく解らないのは、この舞台がもともとは飛騨高山から買ってきた古い舞台とされていることです。ふつう他所から買ってきた山車・舞台であれば、元の土地の形態的特徴を残すものなのですが、伊勢町2丁目舞台はそれが見られません。まったく典型的な深志舞台なのです。飯田町2丁目舞台のような異質な要素が見出せません。
原田蒼渓の指示により徹底的に深志舞台に改造されたか、或いは古い舞台の部材のみを再利用して新たな舞台を組み上げたか。個人的には後者の可能性が高いように思われます。
ちなみに原田蒼渓の父は原田倖三郎で、現在の大町大黒町舞台や下波田舞台の棟梁でした。特に元・伊勢町の舞台であった下波田舞台(安政年間に建造と伝)には息子の倖三(蒼渓)自身も鑿を振るっていたと推測され、その彼が手掛けた舞台であれば、典型的な深志舞台となったことは当然でしょう。なんにしても伊勢町2丁目舞台は、姿かたちが最も「らしい」深志舞台なのです。
(大町市大黒町舞台) (松本市波田 下波田の舞台)
ただ一箇所、匂いの違ったところがあります。それは二階勾欄下の「牡丹彫刻」です。深志舞台の中で花木をこのように大きく彫刻にしている舞台は他にありません。この彫刻には飛騨高山の香りがあります。
(伊勢町2丁目舞台 勾欄下の牡丹彫刻 正面部分)
先日、ある雑誌の企画で対談をすることがありました。「先生じゃあるまいし、対談出演などとんでもない。」と編集者に断ったのですが、対談のテーマは「松本と高山」で、対談相手は高山の長瀬公昭さんだとのこと。「長瀬さんなら…」と、つい引き受けてしまいました。当然、飛騨匠の話になります。(舞台保存会だより69)
対談の中で長瀬さんは、伊勢町2丁目舞台に強い関心を寄せていました。伝承された由緒もさることながら、勾欄下の牡丹彫刻がまさに飛騨風の彫刻であるとのことで、山車の形状は兎も角、この舞台はきっと飛騨の匠が関わった舞台に違いないと、少し興奮気味に語っていました。
(長瀬公昭さん)
(高山屋台と中段欄間の牡丹彫刻 これは青龍台と思われます)
確かに高山の屋台には、中段欄間と呼ばれる部分に牡丹など花の彫刻が多く施されています。しかもそれは極彩色に彩られ、豪華な屋台をさらに薫り立つように演出しています。他の地方の山車にはあまり見られないもので、高山屋台を象徴する装飾彫刻といえるでしょう。ただ、なぜ牡丹など花彫刻なのかは、長瀬さんも分らないとのことでした。
(秋の高山祭の鳳凰台とその中段欄間の菊花彫刻)
(秋なので牡丹よりは菊なのでしょう)
いずれにしても牡丹彫刻は高山屋台を象徴する彫刻です。その牡丹彫刻が伊勢町2丁目舞台に付いているということは、やはりこの舞台が飛騨高山に由来を持つと謂われることの証左となるものでしょう。推測するに伊勢町2丁目舞台は、高山の古い舞台(屋台)をベースに築かれたのだろうと思います。但し、使われたのは牡丹彫刻の部分など材だけで、設計は全く新たになされたのではないかと思われますが。
(神道祭に大名町に展示された伊勢町2丁目舞台)
(伊勢町2丁目舞台の持送り彫刻『玉巵』『琴高仙人』)
10月2日の神道祭は、今年もよい天気でした。伊勢町2丁目舞台は久しぶりに屋根幌を外して、機嫌よく大名町に並んでいました。
この舞台は原田蒼渓の彫刻が飾られた唯一の舞台です。伊勢町2丁目舞台に逢うと、いつもその持送りの仙人彫刻に目を遣ります。『傘風子』『玉巵』『盧敖』『琴高』の4人の仙人図は蒼渓の傑作です。(舞台保存会だより4)
しかし、いつの間にか視線が小屋根の上の牡丹彫刻に移っています。そして目が離せなくなります。それほどこの牡丹彫刻には惹き付ける力があります。
(伊勢町2丁目舞台・牡丹彫刻 これは左側)
見てのとおり、高山屋台の花木彫刻のように極彩色ではありません。まったくの素木です。しかし分厚い材を彫り込んだ牡丹は生命感に溢れ、着色彫刻には及びもつかない存在感と香馥を漂わせています。あらためて素木彫刻の凄みを感じます。
この彫刻の力強さは余念を全く排した写生にあるのだと思います。作者の匠はただひたすらに牡丹を見つめ、ただ無心に彫ったのでしょう。ただ在るが如しで、間然するところがありません。
立川や大隅流の霊獣や人物彫刻には、それとした見方や鑑賞法、或いは批評の言葉も浮かんできますが、こういう絶対的な写生を眼前にすると言葉はなく、ただ唖然と見つめるより仕方がないようです。
(伊勢町2丁目舞台・牡丹彫刻 右側面)
この牡丹彫刻は原田蒼渓の作ではなく、改装以前から付いていたものだそうで、当然作者不明です。おそらく江戸時代の無名の匠でしょう。やはり飛騨の匠なのでしょうか。立川何某などと世に知られた匠でなくとも、凄い匠がいたのだなと、つくづく感じます。匠技というものは、もともと無名なものなのでしょう。
(伊勢町2丁目舞台・牡丹彫刻 背面)
せっかくですので、文中で触れた対談記事の載った雑誌を紹介いたします。八十二文化財団の発行する「地域文化」という季刊雑誌です。長野県各地の地域文化やそれに携わる人々の営みに触れた、なかなか格調の高い雑誌です。対談は今月発行の秋号に掲載されていますので、よろしかったらご覧になって下さい。
(「地域文化」110号の表紙と対談ページ)
但し「地域文化」は、書店やコンビニには売っていません。会員向けの基本非売品のようです。
八十二銀行のロビーにはありますから、銀行に行けばタダで見られます。八十二銀行は用がなくて入って行っても、『どんなご用件でしょうか?』などと寄ってくる警戒コンシェルジュもいませんから、待合のベンチでゆっくり読むことができます。