舞台保存会だより75 飯田町1丁目舞台の彫刻について
飯田町1丁目舞台の彫刻について
(できれば前回の「たより」に続いてお読みください)
平成16年に舞台サミットで飯田町1丁目舞台が解体された際、二階屋根裏から墨書が現れ、舞台の正しい建造年次や世話人たちの名前とともに舞台建築棟梁の名前も判明しました。
『大工棟梁 矢澤寅三郎』
記されていた世話人達は当然当時の町の有力者で、飯田町の人たちから「これは誰それの爺さんである」とか、「この人の子孫はどこへ行っている」といった消息通の会話が交わされましたが、棟梁についての会話はありませんでした。そういう大工さんがいたのだな、というくらいです。
ただ、サミットに来賓として参加していた里山辺の坂下与八さんは、その名前に強い反応を示しました。坂下さんのサミットでの発言、
『矢澤寅三郎は池田町2丁目舞台の大工棟梁である。数年前、池田2丁目の舞台がやはり修理解体された折、その名前が出てきた。大工が矢澤寅三郎で彫刻は清水虎吉。すなわち池田町2丁目舞台は二人による合作である。今回再び矢澤寅三郎の名前に出会って感慨深い。一方で飯田町1丁目舞台の彫刻を見るに、その技法は立川流であり、墨書や刻銘にその名は見えないものの、清水虎吉の刀とみて間違いない。したがって飯田町1丁目舞台は、池田町2丁目と同じく矢澤寅三郎と清水虎吉、両寅さんの共作と思われる。』
坂下さんは里山辺藤井地区の方で、山辺のお船を通じて特に立川流彫刻について造詣が深く、特に山辺が生んだ彫刻家・清水虎吉の大ファンです。自費出版された『立川流彫刻 富種師弟作品集』は松本地方における立川流彫刻の調査研究書として重要なものです。
氏の言う池田町2丁目舞台は池田八幡宮の祭礼に曳かれる舞台で、その8台の舞台の中では最も大きく、彫刻も多い立派な舞台です。明治34年に建造され、平成13年に大改修を受けています。
池田町2丁目の「二丁目舞台大改修記念誌」によれば、舞台解体に際し二階屋根天井裏より墨書が見つかり、由緒が確認されました。掲載写真によりその墨書を読むと、
『明治参拾四辛丑年拾月五日築造
請負人・彫刻師 東筑摩郡松本町南深志町 清水寅吉
大工 東筑摩郡松本町南深志町 矢澤寅三郎
(以下、塗師・金物師 の名前で略)
池田中町』
とあります。
彫刻師である清水虎吉が請負い、矢澤寅三郎が大工方を受持っています。本来は逆だと思うのですが、この辺が清水虎吉の実力と立川流彫刻師としてのブランドの高さなのでしょう。おそらく二人はともに南深志に住んで住所も近く、良いコンビでお互いに助け合って仕事をしていたものと思われます。
(池田町2丁目の「舞台大改修記念誌」と そこに掲載された墨書)
坂下さんによれば、飯田町1丁目舞台の墨書にその名はないものの彫刻は明らかに清水虎吉であり、矢澤が虎吉を誘ったのであろう。そして後年、清水虎吉が池田町2丁目舞台を請負った際、彼は矢澤寅三郎に大工を依頼してかつての恩に報いたのではないか、とそのように推論しておられました。おそらくその通りでしょう。
そうしてみると飯田町1丁目舞台と池田町2丁目舞台は、兄弟船ならぬ兄弟舞台ということになります。語感がよくないので姉妹舞台、姉妹車と言った方がよいでしょうか。明治18年制作の飯田町1丁目舞台が姉、明治34年製造の池田町2丁目舞台が妹ということになるでしょう。
この姉妹、体格や器量がけっこう違います。姉の方は痩せた感じで唐破風屋根を被ってはいますが、あまり器量好しとはいえません。彫刻も乾燥と傷みが激しく、お姉さん苦労してるな、といった様子です。
一方妹はなかなかグラマーで美人です。各部材は太くがっちりとしていて、重量も結構ありそうです。彫刻も傷みが少なく精彩があります。
(飯田町1丁目舞台) (池田町2丁目舞台 鬼は外してあるようです)
池田町2丁目の舞台が立派なのは、理由があります。これまでもたびたび取り上げてきた池田町1丁目舞台は明治27年に松本本町4丁目から買い取ったものですが、この時実は2丁目も手を挙げたようなのです。二者が手を挙げ、入札だったのか籤引きだったのか分りませんが、舞台は結局1丁目に買われました。そこで舞台を釣り洩らした池田中町(2丁目)が新たに新造したのがこの2丁目舞台なのだそうです。ですから清水虎吉や矢澤寅三郎に対しては、『下町(1丁目)の舞台に負けない舞台を造ってくれ。』だったことでしょう。そして、負けない立派な舞台が出来上がりました。池田町2丁目舞台は1丁目舞台より大きく、更に豪華で風格も劣らず、明治期の舞台としてはこの平で最も優れたものです。
さて、矢澤寅三郎についてはそれ以上のことは分からず、相変わらずそういう大工さんがいたのだな、というにとどまりますが、飯田町1丁目舞台の彫刻が清水虎吉であるとお墨付きを戴いたのは嬉しいことでした。それまで彫刻作者について『立川流彫刻師の作と思われる』と記されていた飯田町1丁目舞台の由緒板は、さっそく『彫刻 清水虎吉』と書き換えられました。
さて、実際に飯田町1丁目舞台の彫刻を見るに、これは坂下さんに認証を俟つまでもなく明らかに清水虎吉の彫刻です。特に四隅の持ち送り彫刻、その四霊獣は虎吉以外の彫師には表現できないものです。
以前も触れたことがありますが、清水虎吉の描く霊獣は霊力とでも言いたい不思議な力があり、霊亀なり麒麟なり、見ていると逆にこちらが心の底を見られているような気分になってきます。こういう感じは虎吉の師匠である立川富種や、富昌の彫った霊獣を見ても感じることはないのですが、何によるものなのでしょうか。こういうことを「魅力」というのでしょうが、巧拙ではない力を持った作家なのだと思います。
また、一階の手摺りには二十四孝図が彫られています。正面に「楊香」、右側面に「郭巨」と「孟宗」、左側には「王祥」と「剡子」の5面。これも立川流の定番で虎吉の大好きなテーマです。
(手摺りの彫刻 鹿の皮を被る「剡子」) (氷を融かして魚を獲る「王祥」)
飯田町1丁目舞台に刻まれた二十四孝図は、比較的小さな画面ということもありますが、可愛らしく好ましいものです。特に王祥と剡子の図は思わず撫でたくなるようなキュートな魅力を感じます。実際長い年月に亘り、多くの子供たちの手で撫で摩られてきたことでしょう。特有の丸みを帯びて黒光りする彫刻は、見るだけで人の温もりを感じさせます。こういうものこそまさに『民俗文化財』と呼ぶべきではないでしょうか。
また、これらの場面は立川流特有の下絵により、構図や人物のポーズがきっちりと極められているため、たいへん安定した絵画的な美しさがあります。
(手摺り正面の彫刻 父を庇って素手で虎に立ち向かう「楊香」)
(里山辺「湯の原町お船」の大判彫刻「楊香」立川專四郎富種 刻)
正面を飾る「楊香」は、跳び現れる虎、虎の立ち向かう楊香、恐れおののく楊香の父親が、まるで歌舞伎の一場面のように配置されています。虎吉の師匠・富種が湯の原お船の大判彫刻で表現したような凝縮した躍動感はありませんが、様式美が整っていて美しい。郭巨や孟宗も同様。これら二十四孝の場面は、それぞれ物語のクライマックスで劇的なシーンなのですが、安定した構図で様式化されると、そこには緊迫感・昂奮よりも、牧歌的な美しさ、心地よさがあります。飯田町1丁目舞台に触れる人たちは必ずしも二十四孝の物語を知らなかったでしょうが、懐かしい音楽を聴くようにこれらの彫刻を楽しんだことでしょう。
二十四孝図というのは深志舞台の中でもこの飯田町1丁目舞台だけで、売却された元深志舞台にもありません。そうした意味でもこの舞台の彫刻は古典的で大事にしたいものだと思います。(二十四孝については「舞台保存会だより34,36」をご参照ください)
続いて眼を上に転ずると、二階勾欄下・支輪部には4面に四つの場面が描かれています。正面に「漢文帝」、右側面に「太公望」、背面が「静御前、義経らを伴うの図」、左側面が「黄初平」となっています。
しかし、この彫刻の選択はどうもおかしい。テーマ、出典がバラバラです。
「漢文帝」は二十四孝説話になりますが、「太公望」は史記、あるいは十八史略。「静御前…」は義経記だったでしょうか。そもそも日本の話です。そして「黄初平」は葛洪の神仙伝が出典です。まったく統一感がありません。
(勾欄下・支輪部正面の彫刻「漢文帝」? 何の場面なのかよく判らない)
そもそも正面の彫刻は二十四孝の一話「漢文帝」とされていますが、皇帝らしい人物が童子を伴っているだけの絵柄で、これでは漢の文帝なのか武帝なのか、或いは秦の始皇帝であるかも知れず、まるっきり判断が付きません。謎の一場面です。
(よく見ると周りに梅の花が咲いているので、もしかすると菅公なのかも知れません)
また背面の「静御前」の図も市女笠を被っていますから明らかに日本の女性で、その様子から静御前とするのは正しいと思われますが、他の3面が中国のエピソードであるのに、ここだけ日本の場面とは理解に苦しみます。
或いはまったく別々の彫刻を集めてきて貼りあわせた?とも疑われるのですが、少なくとも前後の2面と、両側2面は同じ手になるようですから、やはりこのような構成で彫刻が彫られ掲げられたのでしょう。
但し側面の彫刻については些かテーマに誤謬があるようでした。それについては回を改めて検討したいと思います。