舞台保存会だより70 煥章館の鷹
煥章館の鷹
(できれば、前回の「たより」に続いてお読みください→ 舞台保存会だより69)
飛騨高山の町はずれに『煥章館(カンショウカン)』という建物があります。煥章館とはニックネームで、施設としては高山の市立図書館です。高山城跡から連なる小高い丘の上に建ち、明治洋館風の美しいたたずまいで静かに高山の町を見下ろしています。
この建物は鉄筋コンクリート造の現代の建物ですが(平成16年建造)、外観はかつてこの場所に建っていた木造の小学校『煥章学校(カンショウガッコウ)』を模して造られました。名称・外観に高山の近代歴史文化を込めたものと思われます。
『煥章』とは論語に由来する言葉だそうですが、煥は光り輝くさま、章は文章、また徽章を表し、文化・文明の光り輝くさまを謂います。文明開化という意味でしょう。
煥章館のモデルとなった煥章学校は、明治6年の開校(寺の建物を使った仮校舎で)。洋館風校舎は明治9年(1876)に建造され、飛騨高山の近代教育の礎となりました。松本の開智学校と全く同じです。明治9年の校舎竣工も開智学校と同時で、当時はともに筑摩県でしたから、煥章学校と開智学校は県下の東西の教育拠点として建造されたものと思われます。明治人の教育に懸ける決意と、大洋に泳ぎだすような熱い思いが伝わってきます。
10月9日の秋の高山まつり見学ツアーに際し、昼食後私は一人でこの煥章館を訪ねました。『煥章学校の鷹』と呼ばれる彫刻を見るためです。
古い街並みの上一之町の裏の土手を上ると、薄緑色のパステルカラーで彩られた煥章館がありました。鉤手の建物中央に塔を載せ、上下の階にバルコニーと立柱回廊を巡らせたアメリカ南部風のファサードはゆとりと落ち着きを感じさせ、映画の舞台にも使えそうです。
玄関を入ると、正面中央カウンターの隣に大きなアクリルケースに入った鷹の姿が目にとび込んできました。それが『煥章学校の鷹』でした。
真直ぐ展示ケースに歩み寄って、初めて見るその巨大な鷹の像の前に立ちます。胸の中を熱いものが流れるのを感じました。何とも言えません。
ケースの下を見ると、次のような解説が記されていました。
『鷹について―
この鷹は、明治9年11月25日、開校式を迎えた煥章学校の正面玄関上に学校の象徴として飾られました。… …宮大工・山口権之守(ヤマグチ ゴンノカミ)(権蔵)が制作を行ったと伝えられています。…』
そう、この鷹の作者は山口権之正なのです。その名を尋ねて何年ぶりでしょうか。中町2丁目舞台の棟梁、飛騨の匠・山口権之正に、その故郷の地で漸くめぐり逢うことができました。余人には忖り難いと思いますが、私は感無量でした。
山口権之正については、以前『中町2丁目舞台』の棟梁として取り上げ、その仕事を追ったことがあります。(舞台保存会だより18,20)
梓川下角の『恭倹寺鐘楼』、穂高有明『有明山神社手水舎』、有明の『香取神社拝殿』など。しかし山口権之正は生没年さえ不明で、頻りに「飛騨の匠」と誇らしげに称しますが、飛騨での仕事が確認できません。手水舎が文化財となっている有明山神社でも、なにかの折に高山で山口権之正なる棟梁のことを訊いて周ったそうですが、知る人は皆無だったそうです。
「ありゃあ、本当に飛騨の匠かいな?訊いても誰も知らねぇだが…。」
有明山神社の宮司さんもそんな調子でした。
私も暫くその行方を追いましたが、上記の建築しか確認できず、殊に飛騨での活動は全く手掛かりがありませんでした。それがふとしたことから煥章学校の鷹のことを知り、飛騨の匠としての若き日の仕事に邂逅することができたのです。
「やっぱり、いたんだ。飛騨の匠 山口権之正…。」
鷹を見つめながら心の中で呟きました。
煥章学校の鷹と聞いて、最初は屋根破風に飾られる懸魚彫刻か何かかと想像しました。しかし実際の鷹は写実的な彩色も施された実にリアルな鷹で、大きさもほとんど原寸大(或いはそれ以上)。玄関の廂下に掲げられていたとは云いますが、完全に独立したモニュメントとして、彫塑作品として制作されています。これは明らかに近代彫刻の世界です。
(煥章学校の鷹 アクリルのケース越しなのでちょっと見にくい)
西洋でも東洋でも、仏像のような直接信仰対象のものを除けば、彫刻・彫塑というものは建築の一部として発達し、建物をより華やかに演出する手の込んだ装飾物として、その地位は常に建築の膝下にありました。東照宮や立川の彫刻がいかに見事といっても、それはしょせん建物や山車の飾りに過ぎません。根付や床置きのような小さなものは別として、作品としての彫刻が建築の桎梏を逃れることはありませんでした。
彫刻が建築の軌範を離れて独立するのは、西洋ではルネサンスから、日本では明治以降になると思います。そう考えれば明治9年に掲げられたとされるこの煥章学校の鷹は、素晴らしく先進的な彫塑作品と謂えるのではないでしょうか。山口権之正はやはり相当できる棟梁だったようです。
鷹は、かつて煥章学校の玄関屋根の軒下に、その下を通過する子供たちを見つめるように吊られていたといいます。この学校を母校として学んだ多くの人が、その印象を語っています。『煥章学校の思いで』と題されたケース内の解説を読むと、
『校門を入ると、すぐ見付けの玄関には木彫の大鷹が、大空を睥睨して立ち天下の英才の輩出を期するかの態は 幼な心にも強く印象付けられたものである。』(杉下延郎)
近年再び脚光を浴びている日露戦争の広瀬武夫中佐も、この鷹の下をくぐって学び、煥章学校を卒業しています。
(鷹の表情 鷹が止まっている手摺は旧高山町役場の階段の手摺り)
(『煥章学校の思いで』など展示物の解説書 鷹が掲げられていた廂の写真も見える)
『今思い描けば、母校は華麗に看えた。明治初年の仏蘭西風に倣った白亜の西洋館で… …正面玄関の廂の軒の、大鷹の羽ひろげた大塑像も明治開花の象徴らしかった。』(瀧井孝作)
瀧井孝作(1894~1984)は高山出身の近代文学者で、俳人・小説家であり(代表作『無限抱擁』)、芥川賞選考委員を長く務めました。ちなみに瀧井孝作の祖父は滝井与六と云い、この人が煥章学校を建造した棟梁です。
滝井与六(~1908)は、先祖は美濃・郡上郡の人とされています。若い頃どこで修業をして、どこで西洋建築の技を学んだのか分りません。開智学校棟梁の立石清重とも関係があったのかどうか? ただ何か信州に所縁があったらしく、煥章学校の建築には松本や波田の大工を連れて行って造っています。前回のたよりで触れた飛騨の「番匠規定書」を逆用して、飛騨に入って仕事をした他国の匠になるようです。(舞台保存会だより69)
(長瀬公昭さんから頂いた鷹の写真 ケース越しではないようです)
暫く唖然と鷹を見つめていましたが、気を取り直して写真を撮ろうとカメラを引っ張り出すと、
「許可なく館内の撮影はご遠慮ください。」と女性の館員さんから制止されました。そして
「匠のこと、山口権蔵について調べに来られた方ですか? こちらへどうぞ。」と案内されました。Yさんというレファレンス担当の司書さんでした。事前にメールで山口権之正のことを問い合わせてあったので、待っていてくださったようです。
2階のカウンター席に案内されると、『高山市誌』やら、10冊ぐらいの本が積み重ねてあり、山口権蔵についての調査結果について教えてくれました。
Yさんによれば、山口権蔵についてはやはり記録が少なく、『飛騨人物事典』というという事典に記された記事が最大になるようです。
(鷹についての表示 現在の鷹は元田五山氏により修復されていることが分かる)
(ちなみに鷹や表示の写真は煥章館の許可を得て撮影しました)
『やまぐち・ごんぞう 山口権蔵 生没年不詳
宮大工。高山の人。権守と称する。城山にあった保寿寺の鐘楼門などを手掛ける。高山市の東小学校玄関の鷹の木彫の作者。仕事の関係で、明治9年(1876)ころから高山と信州との半々の生活を送る。』
以上です。
生没年不詳、は残念です。何処で、何歳で亡くなったのかも分らないのでしょう。
ただ『明治9年(1876)ころから高山と信州と』を往還して仕事をしたとのこと。すなわち煥章学校の完成とともに、信州との行き来が始まったと考えられます。おそらく、滝井与六や彼の伴ってきた匠たちとの交流の中で、信州での仕事が始まったのではないでしょうか。その後の彼のキャリアから判断するに、明治9年の山口権蔵はまだ非常に若く、夢と想像力に溢れた若き棟梁だったことでしょう。飛騨の匠の誇りを胸に、幾つもの峠を越えて松本平にやってきたのだと思います。
Yさんは記載にあった『保寿寺の鐘楼門』についても調べてくれました。
保寿寺は現在廃寺となって亡いようですが、その鐘楼門は神岡の円城寺という寺に移築されているとのことです。山口権之正は廃寺となった波田の若澤寺の鐘楼を恭倹寺に移築しています。昔の人は物を大切にしましたから、家でも寺でも良いものは労を惜しまず移されて残りました。
春になったら神岡へ、山口権之正の鐘楼を見に行ってきたいと思います。