舞台保存会だより68 神道祭と六九町舞台の竣工
神道祭と六九町舞台の竣工
10月2日、四柱神社例大祭・神道祭に舞台が出場し、大名町通りを艶やかに彩りました。
神道祭で大名町への舞台展示は確か平成12年からで、すっかり恒例の行事となりました。但し、天気が悪いと中止になります。季節がら台風が列島に接近しており、天候が心配されましたが、雨雲は関東地方をかすめただけで、松本は爽やかな秋空が広がりました。
今回は北深志地区の2台も合わせて18台の舞台が勢揃いし、好天も相俟ってまさに舞台日和となりました。
今年の神道はこれまでと少々様子が異なります。神社の西側、大名町沿いに聳えていた3本のビルが取り壊され更地となったため、四柱神社は通りからの見通しが良くなりました。この場所はもともと江戸時代には松本城の桝形があったとされる所です。桝形とは防御に主眼を置いた城郭の出入り口で、平時は関所、戦時は松本城攻防の要となる施設です。
世界遺産を睨んで桝形再建のプランもあるようですが、現代の交通事情もありますし、市では当分は更地のまま多目的公園として利用するようです。
今回この公園に4台の舞台が置かれました。残る14台は大名町に。これまでより一台一台が間隔を保って配置され、見やすくなりました。天神まつりで境内にギュッと詰め込まれて並ぶ舞台堵列もいいものですが、一台ずつじっくり見るのには、やはり神道祭かな、と思います。
(桝形跡地の公園に並ぶ舞台) (桝形跡地を示す松本市の石版)
じっくり見るといえば、屋根幌を外してきた舞台がいくつかありました。本町2丁目、3丁目など。屋根の形や鬼・懸魚がよくわかります。勿論これが本来の形なのですが、天神まつりでは多くの舞台が屋根幌を掛けたまま出場してきます。なのに神道祭ではちゃんと外して…。深志神社の神職としては些か不本意ですが、まあ解らないでもありません。
天神まつりは殆んど義務ですから、雨が降ろうが槍が降ろうが舞台は出場で、(流石に槍は無理ですか…)しかも二日がかり。宵祭りの晩はそのまま野天の境内に晒し置かれます。雨もありますし、夜露にも濡れます。少なくとも夜は屋根幌が必需品となります。
しかし、神道祭は悪天候が予想されれば中止ですから雨の心配はありませんし、昼間だけですから夜露もありません。舞台に対する自然のリスクが少ないのです。
それは解るんですけど、せめて昼間だけでもこの姿で天神まつりにも出てくれたらねぇー。天神まつりでも境内で竿を使って上手に屋根幌の脱着を行う町会もありますし、舞台町会の皆さん、一度考えてみてください。
今年の神道祭ではもう一点、特筆事項がありました。六九町舞台が改修され、お披露目出場を果たしたのです。
六九町の舞台は南深志の16台と東町2丁目舞台とともに、平成13年『松本城下町の舞台』の名称で『松本市重要有形民俗文化財』に指定されました。その名のとおり、松本城下町を曳行されていた舞台です。
現在平成の大合併で拡大した松本市には、おそらく80台余の舞台・お船が曳かれているはずですが、「城下町の舞台」と呼べるのはこの18台ということになります。そのうち女鳥羽川以北の北深志地区に残る舞台は、東町2丁目と六九町の2台だけです。
但し、六九町舞台は建造が明治30年(1897)と伝えられ、これが初めての舞台ですから桝形大手門のあった江戸時代には舞台はありませんでした。桝形の隣ということで武家屋敷と細長い厩があり、6×9=54頭の馬が飼われていたと云います。
それがいつ頃から商業地に変ったのか、昭和3,40年代には松本で唯一のアーケード商店街になっており、ロックと云えば子供心にも夢のような空間でした。
城を守る武士と厩の町が、アーケード商店街に変り、馬に代えて舞台が曳かれるという町の変化は、どこかユーモラスな心持がします。そのアーケードも今はもうありませんが…。
その六九町舞台は、やや小ぶりながら端正な、典型的な深志舞台の姿をしています。先代の舞台とか、それ以前の歴史や因習がありませんので、最もオーソドックスなスタイルで建造されたのだと思います。
彫刻は一階手摺と持送り、あとはセオリーどおり二階の欄間と木鼻に竜と獅子が彫られているだけで多くはありません。目立つのは前後の持送りに刻まれた『葡萄にリス』の彫刻で、なかなか印象的です。「葡萄にリス」は立川流の「粟穂に鶉」などとともに定番の彫刻ですが、定番だけに比較もされやすく、作者の技量が問われる題材です。
果汁が張り詰めて弾けそうな葡萄の房の上を、素早い動きのリスが擦り抜けるように駆け巡る、その柔軟で俊敏な身のこなし、ビロードのような肌触り、葡萄の房と併せた充実感が葡萄リス彫刻の醍醐味と謂えます。
優れた彫塑というものは写実的というより写動的なリアリズムを写すもので、形象が実物に似ていればよいというものではありません。左甚五郎の竜や虎が夜になると抜け出すとか、雀が飛んでいってしまったとか、屋根を支えていた力神が重みに耐えかねて逃げ出した、といった伝説は、単に形象がリアルであるということではなく、物の動きやその魂の世界までも彫り込み、真の生命を宿しているかのようだ、という評価でしょう。「写生」という言葉がありますが、人に感動を齎すものは、形ではなく生命です。
「葡萄にリス」は山車や社寺彫刻でしばしば見かけますが、優れた作品を見ると着物の裡にリスが跳び込んだように感じ、体の中をくすぐられるような感覚を覚えるものです。
六九町舞台の葡萄リスは、かなり「感じ」だと思います。
(大村お船の窓縁彫刻 江戸中期の作 素晴らしい葡萄リスです)
六九町は川向うで深志神社の氏子ではありませんし、舞台保存会にも加入していませんから、その舞台は知っていても由緒など詳しいことは解りませんでした。舞台に掲げられる手書きの由緒によれば、明治30年ころ地元の職人によって建造されたらしいこと、人形はなく、立派な金属製の幣束が二階に立てられていたが戦争のため供出されたこと、四柱神社の祭礼のみに出場することが知られます。
明治という時代を迎え、武家屋敷や軍事用の厩が商業地に生まれ変わり、これも新しい時代になって建てられた神道・四柱神社とともに、新しい松本の中心として発展していこうという意気込みが舞台建造に至った理由でしょう。新しい町の息吹が感じられます。
(4月6日 舞台庫の前で解体清祓式の様子 神主さんは四柱神社の熊谷権禰宜さんです)
今回この六九町舞台は、4月の初めに解体して工事を開始し、9月の末に竣工しました。松本深志舞台保存会としては修復に関わりませんでしたが、工事を行った山田工務店の山田棟梁から、大工棟梁の名前が出てきたことを知らされました。
「二階屋根の棟木に墨で書いてあったね。飛騨匠で、…なんだか難しい名前セ。」
さっそく解体時の写真を取り寄せて墨書を見ましたが、たしかに難しい名前です。読み易いきれいな楷書で棟木書きされていますが、一字だけ花押のような文字があり、姓名も初めて聞く名前。
「またも飛騨の匠、そして権之正。信州で仕事をする飛騨の匠は、なぜ権之正を名乗るのだろう?」
花押風の文字の読み方を考えてみました。崩し字にも見えません。文字というよりマークのようです。また「藤原宗次」という名も飛騨の匠の系図に見えません。
しかし、ふと思い当るところがあり、匠の正体を推定しました。常に「飛騨の匠」を冠とするあの棟梁ではないか?これは私にとって大きな発見なのですが、それについては長くなりそうなので、稿を改めたいと思います。
今年の神道祭は、終日好い天気でした。台風の影響か、午後になると少し風が出てきました。暖かい南風です。十月とは思えないバカ陽気でした。
午後4時になると舞台は撤収します。先頭の六九町舞台から動き出し、それぞれの自分の町、舞台庫に帰って行きます。六九町以外は女鳥羽川を渡って南へ。千歳橋の上では、西からの低い陽射しを浴びて舞台が黄金色に染まります。なんだかとても懐かしい景色です。
千歳橋を渡り本町通りを連なって行く舞台の後ろ姿を、小さくなるまで見つめていました。