舞台保存会だより67 深志舞台の由来
深志舞台の由来
前回の「たより」で、本町4丁目舞台の修復竣工に際し舞台人形の箱が発見され、人形が寛政2年(1790)の制作であることが判明しました。(舞台保存会だより66)
この寛政2年というのは極めて意味深い年であり、深志舞台の発達史において重要な年号と思われるのですが、そのことを舞台の歴史を繙きながら少し考えてみたいと思います。
松本の郷土史研究家によると、深志舞台の誕生は元禄5年(1692)とされています。その根拠は江戸時代宮村町の名主・河辺家の残した河辺文書の中の『大守累年記』に、元禄5年に舞台が初めて曳行されたとする記述が見えるためです。
それによれば、『(舞台は)…天満宮北ヲ東ニ行 南ニ行 大明神宮東裏ヲ南ニ行 又西ニ行 長沢ゾイヲ行…』などとあって、舞台はどうも神社の周りを周回するように運行されていたらしい。そしてその行間、やや補足的に『…(舞台引渡スハ)元禄五年初メテヨリ…』と記述があり、ここが舞台初見の根拠となっています。
私は歴史研究家ではなく、古文書もロクに読めませんから、研究家の方々の言われる通りに知識してきましたが、この文言を決め手に舞台の始まりを元禄5年とするのは、些か如何であろうか、と近ごろ考えるようになりました。
というのは文章の読みようによっては、神社を周回するように舞台の運行がなされたのが元禄5年から、という風にもとれますし、これは運行についての記述であって、製作については何も語っていませんから、その以前に舞台があったかなかったかは判然としません。また、舞台行事が始まった事情についても、何も陳べられていませんので、事態がつかめません。累年記の記述は、「元禄5年には舞台が運行されていた」ということを確認できるに過ぎないのではないでしょうか。
ちなみに深志神社の古い社伝に拠れば、舞台行事の始まりは、元和の初年(1615)、小笠原忠真公が大坂夏の陣に出陣、戦勝帰国を感謝して『報賽の誠を捧げんと、南深志13ヶ町産子へ命じ山車舞台を造らせ、社前に曳き入れて各々舞人をして奏楽せしめ…』たことに始まるとされています。これに就いては出典も判らず、ただの伝承ですので伝説の域を出ませんが、行事発生の事由は述べられています。また日本各地の山車行事も、多くは江戸初期に発生していますから、早過ぎることはありません。深志神社の例祭は寛永11年(1634)から「天神まつり」として夏祭りで行われるようになりました。舞台と舞台行事も江戸の初めから元禄ごろにかけて誕生したと考えるのが妥当なところではないでしょうか。
いずれにせよ元禄という江戸時代前期に松本に舞台があったことは間違いないようです。しかし、その形態や大きさなどは全くわかりません。当時の舞台というものは残っておらず、絵図も確認されていないからです。
そして、現在確認されている現存する最も古い舞台というのは、寛政5年に製作されたとされる松本本町2丁目舞台。現在の梓川地区北大妻、野々宮神社の祭礼に曳かれている舞台です。
この舞台については以前紹介したことがあります。(舞台保存会だより22)
寛政5年(1793)に本町2丁目舞台として造られ、天保8年(1837)に15両で大妻村に売却されました。むくり型の屋根と四方の小屋根、前輪が大きく後輪が内輪の三輪車、後ろ舵棒、手摺や支輪部に彫刻が施され、小ぶりながら完全に深志舞台の特徴を備えた舞台です。18世紀後半には、深志舞台の基本形は完成していたと考えられます。
また大妻の近く、梓川・横沢にも昔松本から買ってきたと伝承される舞台があります。サイズは北大妻とほぼ一緒、これも典型的な深志舞台です。網代型の輪覆いが江戸時代後期の深志舞台のスタイルにさきがけています。制作年や、どこの町から買い付けたのかは不明ですが、その姿を見れば、これが深志舞台であることは明らかでしょう。江戸の中期にはこんな姿の舞台が松本の町中を曳かれていたことと思われます。
さて、本町2丁目は舞台を大妻村に売却した翌年、天保9年(1838)に原田幸三郎と立川和四郎富昌による新しい舞台を完成させます。これが現在県宝となっている大町大黒町舞台です。
この舞台についても、これまでもたびたび触れてきました。(舞台保存会だより28)
明治21年に本町2丁目から大町に売却され、以来今日まで大黒町舞台として若一王子神社の祭礼に曳かれています。昭和62年に単独で長野県宝に指定されました。長野県内にはおそらく数百台の舞台やお船が曳かれていますが、疑いなくその頂点に立つ舞台と謂えます。
この大黒町舞台は、やはり江戸後期に建造された本町4丁目舞台(現在・池田町1丁目舞台)や伊勢町舞台(現在・下波田舞台)とともに松本深志舞台の完成形といってよいでしょう。重厚で格調高いその姿は、他の時代の舞台とは一線を画します。後の時代にも、これを超えようと建造された大型舞台はいくらもありますが、出来栄え風格ともに全く及ばないのは不思議なほどです。
舞台文化というのは江戸の文化であり、その精華なのだと痛感させられます。
さて、少し遠回りをしましたが、本町4丁目の舞台人形・神功皇后が、その箱書きから寛政2年の作と確認されました。町の伝えによれば武内宿祢人形もあったとされますから、並んで舞台に積載されていたことでしょう。(舞台保存会だより50)
大型人形が2体並ぶということは、相当大きな舞台でなくては適いません。ではどの舞台に積載されたのか?
当然、当時の本町4丁目の舞台、すなわち現在の池田町1丁目舞台です。
元本町4丁目舞台、現池田町1丁目舞台は、江戸時代後期に建造され、明治27年(1894)に池田町下町に売却されました。売却の理由としては舞台が重すぎて曳き回しが大変だったためと、これは4丁目の伝承です。あくまで言い伝えですが、その伝えがそのまま信じられるほど、この舞台は巨大で重量感があります。実際に重いのだと思います。
池田町1丁目舞台は平成12年に全面改修をしましたが、墨書など建造年を記した書付などは出ませんでした。ただ修復を行った工務店から、池田下町が購入した明治27年より更に100年ほど遡る建造ではないか、との見立てがあったそうです。100年遡れば1790年代、まさに寛政年間(1789~1800)ということになります。
以前、このことを執りあげた際、この年代はいかにも古すぎるので、せいぜい文化文政年間(1804~29)ではないか、と考察したことがあります。(舞台保存会だより37)
寛政年間では北大妻の舞台と同じ年代になってしまうため、舞台の規模や作りからして、もう少し後だろうと考えたからでした。
私の抱く舞台発達史の観点からすると、
① 江戸前期(慶長から元禄・17世紀)に松本の舞台が誕生し、
② 江戸中期(宝永から寛政・18世紀)に北大妻舞台にみられるような基本形深志舞台の完成、そして
③ 江戸後期(享和から慶応・19世紀)に舞台の大型化、大町大黒町舞台に代表される絶頂期深志舞台の完成。
というストーリーが考えられました。※
①前期のことは知り難いのですが、全体に極めて整合的な舞台クロニクルです。
しかし今回、舞台人形の制作年判明に伴ない、池田町1丁目舞台の製作が人形と同じく寛政初年ということになると、上記のストーリーは乱れます。
寛政年間には、小型のまだ発達途上の舞台(北大妻や横沢の舞台)が製作される一方で、既に完成の域に達した大型深志舞台(池田町1丁目舞台)も、すでに建造され曳かれていた、ということになります。舞台進化論は絵に描いたようにはいかないようです。
ソフィスティケートされた大型舞台と、聊かプリミティブな小型舞台がほぼ同じ年代に建造され、街中に交錯する祭り景色というのは、想像するに奇妙な風景ですが、舞台のオーナーは個々の町で、軍艦や戦車と違って必ずしも計画的に設計・建造されるわけではありませんから、まあそういうものなのかも知れません。現在の深志舞台を見ても、サイズはさまざま、形態もいたってまちまちです。
深志舞台の伝統なのかも知れません。
※ 一般の歴史区分では慶長から貞享までが江戸初期、元禄から安永までが中期、天明以降が後期と区分されるようですが、世紀の区切りを重視して上記のように分けてみました。