舞台保存会だより59 唐子と福神
唐子と福神
社寺建築における唐子彫刻の始まりは、日光東照宮の陽明門の上層高欄に施された「唐子の知恵遊び」が嚆矢となるようです。’竹馬’やら’じゃんけん’やら、当たり前の子供遊びだけでなく、「司馬温公の甕割り」や「孟母三遷」など、後の唐子図の主要なテーマも既にここにあって、やはり東照宮というのは日本建築史上のメルクマールとなる建物なのだと思います。
(池田町2丁目舞台彫刻 「司馬温公の甕割り」清水虎吉作)
それにしても、子ども図がなぜ「唐子(カラコ)」なのでしょうか?唐子とは中国の子供という意味です。なぜ日本の子供ではいけないのでしょうか?
どうも因果な性格で、私は理屈が揃わないとそんなことも気になって仕方ありません。なぜ唐子が好まれたのか、今も考えています。
唐子は仲間で遊ぶ群像もありますが、仙人や福神のパートナーとして添え花的に描かれるケースもよくあります。中でも仙人「張果老(チョウカロウ)」の彫刻には、必ず登場します。
(大町市大黒町舞台 支輪部彫刻「張果老」立川富昌作)
張果老(張果)は通玄仙人とも呼ばれる代表的な仙術者で、いわゆる「瓢箪から駒」の仙人です。そのエピソードについては、以前本町2丁目舞台の彫刻の解説をした際に詳述しましたから繰り返しませんが、張果の名は知らなくとも、瓢箪から駒を転び出す仙人の図は、誰でも見たことがあるはずで、最も知られた仙人と言ってよいでしょう。(舞台保存会だより26)
そこに登場する唐子は、たいてい張果の傍らに立ち、軍配を持って目の前の奇跡を囃すように称えています。驚嘆と称賛の表現がその役割と言えます。
(里山辺藤井のお船と その支輪部彫刻「張果老」立川富保作)
張果老は八仙人の一人で、本来は福神というわけではではありません。しかし、瓢箪から駒と言うめでたさは、張果を招福の神に仕立て上げました。更に脇に従えた唐子の存在も効果的です。唐子が添ったことで峻厳な仙人が、親しみやすい福神に変っています。
また立川流の神社建築では、しばしばこの図が本殿向拝部虹梁上に飾られますが、数ある題材の中でこの位置を占めるということは、張果老が特に重んじられていたことを示します。もちろん唐子も添っています。
(駒ヶ根市大御食神社本殿とその中央殿向拝部の彫刻 立川音四郎種清作)
(日焼けと汚れのため見にくくなっているのが残念です)
ところで日本で福神と言えば、やはり七福神です。そして七福神図の中にも、屡々唐子が登場します。その七福神の中で最もよく唐子と絡むのは、どうも布袋のようです。
布袋は唐の末期に現在の浙江省辺りに棲んだという実在の僧侶で、法名は釈契此(シャクケイシ)と言ったそうです。いつも布施を入れる大きな袋を引きずって歩いていたため、布袋の渾名で呼ばれました。施しは何でも受け、本来僧侶であれば口にしない生臭物でも喜んで袋に入れたそうです。特に偉いことをしたという人でもないようですが、若干神仙的なエピソードもあり、またその人柄に言うに言われぬ魅力があったのでしょう。死後、絵姿に描かれるなどして巷間の信仰を集めました。
(北大妻・野々宮神社舞台の彫刻 布袋と唐子)
その魅力というのは何となく解ります。そもそも僧侶というものは、己の生命の維持には最小限の滋養を摂取し、仏道修行に励むのが本来の姿ですから、高僧であるほど瘠痩としたものです。しかし布袋はだらしないほどに肥満した下腹を抱え、同じく下膨れした顔にはおよそ仏者にはまったく無縁の笑いを浮かべます。その笑いは寒山拾得のそれとはまた一線を画した、世のすべてを肯定するような無類の笑いです。
つまり布袋とは偉大なる逆説で、非仏教的な姿態の中に、常識を超越した仏教や東洋思想の究極的な真理に触れるところがあり、そこが大いなる魅力なのでしょう。
(里山辺藤井お船の大判彫刻 布袋図)
そのような言葉にならない玄妙な思想を最も直感的に捉えるのは、やはり子供のようです。
布袋に纏いつく唐子たちは、まったく布袋を大きな身体の仲間と感じているようです。布袋のからだの上で跳ねまわったり、力を合わせて引きずったり。まるでぬいぐるみ扱いです。そのように弄ばれることを布袋は心から喜んでいます。布袋と唐子の関係は、何かわれわれ東洋人の中にある理想の世界、真の世界そのものであるように思います。
(半田亀崎西組・花王車の「蹴込み」彫刻 布袋と唐子 彫常刻)
ところで、七福神と謂うのは不思議な神々で、そもそも「神」と呼んでいいものなのか?正式に七福神を祭神として祀る神社はありませんし、そういう寺もなかったと思います。毘沙門天や弁財天などは、偶に堂や祠が築かれたりしていますが、寺の一部であったり、庶民信仰施設の域を出ません。道教とも関係ないようです。
中国には「八仙人」という人気の仙人集団があり、七福神はこの八仙人の影響を受けて形成されたとも言われていますが、性格は全く異なります。八仙人はあくまで中国の仙人達。それぞれが個性的なキャラクターで、中国では今でも講談的な人気があります。
一方、七福神は福を齎すという具体的な効能を持った日本独自の庶民信仰の神々ですが、面白いことにすべて外来の神、海外からやってきた神たちです。
(北大妻・野々宮神社舞台=前々松本本町2丁目舞台とその彫刻)
(一階・手摺り部分に七福神が彫られている。素朴ですがとても素敵な彫刻です。作者不詳)
恵比寿、大黒、布袋、毘沙門天、弁天、福禄寿、寿老人。(一部、異同はあるようですが)
大黒、毘沙門天、弁財天はインド由来の神。たいてい密教と共に日本に渡来したヒンドゥーの神たちです。
布袋は中国の僧侶。
福禄寿と寿老人は同一視されますが、何れ中国・道教系の神で、寿老人は老子であるとも、南極星の化身ともされます。
恵比寿は唯一、日本の神と言ってよいのかも知れませんが、「ゑびす」という言葉が夷狄・胡など、言語の異なる外国人を指すとおり、海の向こうからやってきた蕃神でしょう。
大黒と恵比寿はそれぞれ古事記の神と習合して、大国主命と事代主命に比定されます。しかしこれは、生産・漁労・流通の祖神として庶民に人気の高い蕃神を日本の神と配合しただけで、神同士の性格が違いますし、あまり感心したこととは思えません。
恵比寿は「ゑびす」でよいのではないでしょうか。
(北大妻・野々宮神社舞台の彫刻 恵比寿と大黒)
古代より日本人にとって文明と富は、常に海の向こうにあるものでした。生産性の高いもの、文字や精神文明、そうしたものはすべて海外で発明され、海を渡って島国日本にもたらされました。日本人にとっては海外とはすなわち文明で、文明が富と福を一緒に運んできた。七福神とはそうした海外文明の象徴なのだと思います。
七福神たちは象徴としての生成ゆえに、鎮座する社もなく、寺や道観もない。しかし庶民の心の中にしっかりと礎石を築きました。民自身の所有する宗教施設である舞台・山車の彫刻に七福神図が多いのは納得のいくことです。
(半田岩滑西組・御福車 壇箱彫刻「七福神」彫常作)
半田市上半田地区の南組福神車の壇箱彫刻は立川和四郎富昌作とされる七福神です。福神達の表情がいい。毘沙門天ばかりは仕方ありませんが、他の6神はみな顔に満面の笑みを浮かべ、何がそんなに楽しいのか。いかにも太平を謳歌している、といった風情です。中央で布袋を引き回す唐子たちも生き生きとしています。
(上半田南組・福神車と その壇箱彫刻 立川富昌作)
この図を見ていると「鼓腹撃壌」の故事が浮かんできます。
鼓腹撃壌…中国古代、天下を治めること50年に及んだ帝・堯が、実の民情を知ろうと微服して巷に游ぶと、食べ物を口にしながら腹鼓を打ち、土を叩いて唄う老人がいる。その歌
「陽が出たら耕し、日が落ちたら休む。井を掘って飲み、田の作物を食う。皇帝の力なぞ儂には何のかかわりもないわい。」(十八史略)
中国古代というより原始の、堯・舜の治世は、永く中華政治の理想とされました。統治される民が統治者のことを全く意に介さず、統治されていることすら忘れている。それでも秩序は行きわたり、万民が平穏に日々を送ってゆく。それは一つの政治的究極であり、社会の理想と言えます。物質的にはさほど豊かではないかもしれませんが、鼓腹撃壌する老人の棲む社会は、ユートピアと言えるかもしれません。
(上半田南組・福神車の七福神)
富昌の七福神は、鼓腹撃壌していた堯の時代の民衆の姿のそのもののようにも思えます。笑門来福という言葉がありますが、福神の福神たる所以は、自ら満足して笑うということで、笑いの波が遍く人々に福をもたらすいうことでしょうか。
最後にもうひとつ、和四郎富昌の福神図を紹介したいと思います。
(坂城町・四ツ屋の曳き舞台)
これは埴科郡坂城町・四ツ屋という地区の曳き舞台です。簡素な舞台ですが、左右の脇障子に立川富昌作の布袋と寿老人が飾られています。
この曳き舞台、予てから見たいと願っていましたが、いつ、どこのお祭りに曳き出されるのか分かりませんでした。地元の神職さんに問い合わせますと、その舞台は特にどこかの神社の祭礼用に造られたものでなく、現在では数年に一度、不定期に地区の催しなどに曳き出されるだけ、とのこと。そんな舞台もあるんですね。
(四ツ屋の曳き舞台とその足回り)
10月の某日、JAちくま坂城支所の竣工祝に曳き出されると聞き、出掛けて行きました。
四ツ屋の曳き舞台は、北信地方に多い1階建ての踊り舞台で、いわゆる移動式舞台(ステージ)の機能を備えたものです。かつてはこの上で手踊りや芸事も行われたのでしょう。舞台と称される山車の原形に近いのかも知れません。足回りは立派な4輪でしたが、既に曳行には耐えられないらしく、キャスター付きの別の台輪が取り付けられていました。
お目当ての脇障子彫刻は舞台の後部に取り付けられていました。布袋と寿老人、本当に見事な富昌の福神像です。立川流は特に人物彫刻の場合、木目を等高線のように彫り出して肉体表現を力強く演出しますが、布袋などは木目自体が細かに詰んで美しく、まさに立川彫刻の見本です。ゆったりとした線でしかも張りがある、小品ながら充実した彫り様は、これこそ富昌の刀なのだな、と感じさせました。
(布袋と寿老人 笑っていない布袋と笑っている寿老人というのも珍しい)
唐子も絡みます。寿老人の唐子は並んで笑う姿、布袋の唐子は袋の中から手を伸ばし、布袋が手に持つ宝珠を「くれ」とせがんでいる様子です。まるで親子のよう。彼らは、同じ空気を呼吸する同一世界の住人なのでしょう。
唐子と福神は共に外来の神と子どもですが、彼らの棲む世界は、遥か昔から我々の心の奥に憧れる永遠の理想郷なのだと思われます。