舞台保存会だより51 神功皇后について
神功皇后について
前回本町4丁目の神功皇后人形を紹介していましたら、いつの間にか神武天皇にスリ替り、挙句に加藤清正で終わってしまいました。神功皇后は舞台彫刻の題材にも多く、歴史的にも興味深いテーマですので、引き続き採り上げたいと思います。
神功皇后は「じんぐうこうごう」と訓みます。祭神として神社に祀られることも多い人物ですから、神職は間違いなく訓みますが、現代人には難しいかも知れません。
先日も本町4丁目舞台の修理審査委員会の際、既に70歳過ぎの紳士が「しんこうこうごう、…しんこうこうごう。」と呼んで困りました。しかし、戦後も間もなく70年。戦後教育世代にとって「神功皇后=じんぐうこうごう」は学校で教わらない名前なのです。
神功皇后は漢風諡号で、正式な名前は『氣長足姫尊(おきながたらしひめ のみこと)』(古事記では息長帯比賣命)と謂います。仲哀天皇の妃。皇后でありながら日本書紀では一巻が与えられています(九巻)。天皇の諡号は、後世にその功績などから贈られた呼び名ですが、「神」の字の付く天皇は特に重要とされます。神武天皇、崇神天皇、応神天皇。みな新しい王朝を闢いた天皇です。神功皇后も皇后ながら神の字を有するということは、開闢の帝と認められたためでしょう。
戦前の古い人たちには「神功皇后」といえば「三韓征伐」とつづき、その名は古代の英雄的外征譚として記憶されます。その話というのは…、
(中町2丁目舞台彫刻「神功皇后と武内宿禰」太田鶴斎作・舞台保存会だより10)
仲哀天皇の御世、熊襲が背きました。仲哀天皇にとって熊襲は、父ヤマトタケルが事向けた所縁の地です。帝は再び熊襲を征討すべく、九州の地に遠征します。神功皇后も別路で北九州に向かいました。香椎に宮を営み、軍議に臨もうとすると、ここで神功皇后が神憑ります。皇后に憑いた神が告げるには、
『熊襲の背反は小さなことで、軍を挙げて討つには及ばない。何れ帰順する。それよりも海を挟んで西の国・新羅は、豊かで多くの財宝を貯えている。新羅を攻めなさい。』
天皇は疑いの心を抱いて山に登り、西海を臨みますが何も見えません。
『海の向こうに国なぞないではないか。』と、外征はせず、熊襲を攻めました。
しかし、熊襲征伐は失敗。成果が得られぬまま天皇は九州の地で急逝してしまいます。
(私見ですが、ここで一旦、崇神帝以来の古代王朝は滅亡したと解すべきでしょう。それにしても天皇の命さえ失わせてしまうとは、神功皇后の霊力たるや恐るべし。)
ここから書紀は「神功皇后紀」となります。
神功皇后は神の告げを確かめるべく、武内宿禰(たけしうちすくね)と共に審神者(サニワ)を設け、神託を聞きます。また釣り占で事の成否を計り、遂に海路新羅に出征しました。
皇后たちを載せた船は、追い風を受けて玄界灘を渡ると、津波のような大きな波に乗って忽ち新羅の首都に到達します。その勢いに驚いた新羅の王(コシキ)は戦わずして降伏し、多くの財宝を献上すると共に、毎年の貢も約束しました。さらに、その話を聞いた韓の他二国、百済と高句麗も、神の国・日本の勢威に恐れ慄き、以後毎年、朝貢することとなりました。
(上半田北組「唐子車」と、その壇箱彫刻「神功皇后と新羅降伏の場面」初代彫常作)
後段もありますが、以上が神功皇后の三韓征伐の話。たいへん勇壮、且つ民族意識を奮うお話です。戦前は半ば史実とされ、知らぬ者のない史話だったようですが、現在では国際関係もあって童話にも取り上げられることはなくなりました。現代の古代史家にも神功皇后の事跡をまともに取り上げようという人はいません。しかし、その物語は日本人の古い心性に特徴的な要素を多く含んでいるように思います。
まず、これは英雄的叙事詩であると共に、略奪譚です。神功皇后に降った神は、熊襲ではなく新羅を獲れと言います。その理由は、熊襲は勁い割に貧しいが、新羅は財宝を抱えた豊かな国だからいうもの。しかし攻められる新羅の王(コシキ)にとっては堪りません。何の咎もないのに、豊かだというだけで掠められるのです。
(神功皇后と武内宿禰 海賊の女棟梁と老獪な海賊船長と云った感じ)
これはおそらく大陸の北方騎馬民族(遊牧民)と同じ考え方で、彼らは他民族から奪うことを悪と見做しません。逆に略奪こそ彼らの正当な収穫の方法です。古い日本人の中には騎馬民族の血が色濃く残っていたのではないかと思います。三韓征伐はマイナーな説話になりましたが、この手の話は今でも身近にあります。誰でも幼時に親しむお伽話「桃太郎」は、全く同じ内容の物語です。お伽話や節分の鬼儺いで情操を涵養しつつ、われわれは無意識のうちに他民族や異族に対する攻撃性を保持しているように思います。それは歴史の節々で露われます。現在は平和で、誰もそのようなことを思いもしませんが、心すべきことでしょう。
(上半田南組「福神車」前山太平鰭の彫刻「神功皇后と新羅降伏の場面」初代彫常作)
三韓征伐と共に神功皇后に欠かせないのが、武内宿禰の存在です。この二人は常にペアで描かれますが、これがなんとも不思議な関係です。皇后は仲哀天皇の妃ですから、いくら早世したとはいえ仲哀帝と並んで描かれるのが本来です。しかし、そういう図はまずありません。神功皇后、武内宿禰、そして宿禰の胸に抱かれた赤子の応神天皇(誉田別尊・ホムダワケ ノミコト)、この図像です。それは日本における「聖家族」像とも言えます。
(半田市岩滑新田奥組「旭車」前山太平鰭の彫刻「神功皇后と皇子を抱く武内宿禰」彫常作)
(さらについでに、同 壇箱彫刻「天の岩戸開きの図」すべて彫常作)
深志神社の古い絵馬に神功皇后と武内宿禰を描いたものが2枚あります。1枚は文政8年(1825)砂山抱亭画と伝えられます。砂山抱亭(1768~1819)は抱亭五清とも謂い、葛飾北斎の弟子の浮世絵師です。細面で長い吊り目の美人画を得意としたと謂われますが、絵馬の神功皇后は確かにそんな面持です。
甲冑に身を装うた神功皇后。しかし、顔はいかにも遊女風で、姿勢もどことなくナヨっとしているのは、抱亭らしくてユーモラスです。皇子を抱いた武内宿禰の顔。やっと初孫を授かった爺と云った顔で、もうよれよれです。抱かれた皇子は凛々しさが強調され、あまり赤子らしくはありません。
神功皇后は新羅に出征の際に臨月を迎え、出産を遅らすために鎧の帯の下に石を巻いて船出したとされます。三韓征伐は成功し無事に日本に戻って皇子を出産しました。武内宿禰の喜びは遠征の成功と、危険を潜り抜けて皇子が無事誕生したことの二重の喜びを表しているのでしょう。
(皇子を抱き、大喜びの武内宿禰) (神功皇后 少し遊女風?)
もう1枚は珍しい武内宿禰と皇子だけが画かれた図です。年・作者不明。こちらも武内宿禰は、それこそ蕩けるような表情で皇子を見つめます。(しかし江戸時代の画家は、人物描写は巧いのに、赤子や幼児の描き方だけはいただけませんね。)
宿禰と皇子は基本的に臣下と未来の王の関係で、血縁ではありません。もっと醒めた顔付きで皇子を見てもいいのに、何がそれほど嬉しいのか…。
武内宿禰に抱かれているのは、実は日本という国そのものなのでしょう。この後、三人に前には忍熊王(おしくまのみこ)麛坂王(かごさかのみこ)の叛乱という試練も待つわけですが、それも踏み越えて新しい国・日嗣の皇子が誕生したという喜びに溢れている。これは日本という新生国家の「聖家族」像なのだと思います。
武内宿禰という人物は、記紀に景行天皇の時代から現れ、仁徳天皇の時代まで権力に最も近い地位で活躍します。齢300歳を数えたと云いますからほとんど化け物ですが、それ故か、歴史家からは架空の人物と見られます。
しかしその存在感は抜群で、記紀の中では最もインパクトの強い人物と言えるでしょう。但し絵馬のような好々爺とは程遠く、策略と胆力に富んだ典型的政略家で、王朝が変わってもしぶとく生き続けます。覡者で呪術にも通じており、煮ても焼いても絶対に食えない、といった感じ。その姿は、古代史の薄闇の中から鋭い眼光の巨人がこちらを睨んでいるように感じます。
神功皇后はもう少し神話的な臭いがします。シャーマンとしての女王は、仲哀天皇の事例を見ても恐るべき能力の呪術者だったことが伺えます。卑弥呼や天照大神、歴史的には推古天皇や皇極天皇、持統天皇とも繋がるものがあり、武内宿禰との二人体制は、日本の古代政治の原型というべきものなのでしょう。
そして、この不思議な男女巫覡による政治(まつりごと)の中から、日本という国は徐々に黎明を迎え、応神・仁徳の河内王朝を経て、やがて歴史時代に移ってゆくのだろうと思います。