舞台保存会だより50 本町4丁目の神功皇后人形
本町4丁目の神功皇后人形
4月を迎えたのに、深志神社境内の梅の花はまだ開きません。例年であれば3月20日過ぎにはあちこちで紅白に綻び、馥郁たる香りを漂わせているのですが、この冬の寒さ故でしょう。
それにしても梅の花は「春いちばん!」とか言って、立春前には蕾を開き、春より先に春の到来を告げるものです。ところが当神社の梅は桜前線が列島を駆ける頃になっても未だ蕾のままとは…。情けないというか、何とも恥ずかしい限り。いっそ桜の開花に紛れてしまえば、心穏やかにその香を愛でることができるかも知れません。
よく見たら、玉垣の内、本殿前の紅梅が数輪綻んでいました。これは三年前、鎌田天満宮合祀100年の記念に、鎌田町会から贈られた記念樹です。己の使命に意識のある若い樹は、少し違うようです。
さて、舞台と梅とは全く何の関係もありませんが、舞台人形の中には梅花を髣髴とさせる人形があります。本町4丁目舞台の人形『神功皇后』です。聊か故事付け臭くもありますが、この人形の持つ品格の高さ、凛とした風情、気高くも香るような姿は、花に譬えるならやはり咲き初めた梅の花以外ではないと思います。
凛々しく引き締まったお顔の良さ。金襴衣裳の上に甲冑を纏った堂々たる姿。海原の彼方を見透すような深い眼差しも印象的です。これほど存在感のある舞台人形は他にありません。
この人形は江戸時代後期の作と推定されています。本町4丁目の前の舞台は明治27年に池田下町(1丁目)に売却されましたが、その舞台に載っていたと言われています。舞台自体の制作年も不明ですが、個人的には文化文政期(1804~29)頃と推測しますので、人形もそのあたりでしょうか。
因みに深志舞台の人形で間違いなく江戸期の作と推定されるのは、本町5丁目の古い人形と、中町1丁目の『猩々』人形だけです。
本町4丁目の皆さんも、自分たちの舞台をドンガラ舞台と呼び、あまり尊敬もしていない様子ですが、その分この人形については思い入れ深いものがあります。
「うちの町は金舞台を売っちゃったから、自慢できるのはこの人形だけセ。」保存会副会長でもある町会長の加納さんは、いつもそんな調子で笑いながら言います。
この度本町4丁目舞台の修復に当たり、当然ながらこの神功皇后人形をどうするか話し合われました。
隣の本町5丁目では、舞台庫の隅に仕舞われていた『天神さま』人形が、数十年振りに引き出されて、久方ぶりに舞台積載と思いきや、調査の結果『柿本人麻呂』と名を改め、しかもこの人形、ゴミ同然ながら江戸期の作で貴重な文化財であるからと修復は取止め、舞台には別に作ったレプリカを載せて、本尊は保管することになりました。(舞台保存会だより38)
(レプリカとして新調された本町5丁目舞台人形『柿本人麻呂』)
本町4丁目もこのことを検討しましたが、長年親しんだ人形を舞台から降ろすには忍びず、文化財としての価値を失わぬよう、慎重に修復をすることとなりました。
深志舞台は市の「重要有形民俗文化財」です。民俗文化財という概念は、舞台なり人形なり、そのもの自体の歴史的・文化財的価値ではなく、祭礼など人々の文化活動の中で活用されて、その意義と価値を発揮する文化財という意味です。舞台庫の隅や博物館倉庫の奥深くに仕舞われては、どんなお墨付きを貰っても何の価値も生みません。
2月8日の舞台改修清祓い式の折、式後に舞台から降ろされた神功皇后人形を見ると、あらためて詳しく作り込まれた人形の細部に驚かされました。
神功皇后は海藻を付けた岩礁らしき台座に、やや前のめりの姿勢で腰掛けています。鎧を着け、左手には弓を持って、これから新羅に遠征する姿なのでしょう。鎧の下には分厚い金襴の綿入れの着物を着ていますが、弓を持つ左腕には、腕当というのか腕用の鎧を巻いています。
靴は毛沓(ケグツ)。熊の皮を加工した武人用のブーツです。但し、人形の専門家によると、神功皇后人形が毛沓を履くことはないそうで、皇后の武人ぶりを強調するあまりか、或いは何か別の人形の沓が紛れてきて、履いてしまったのではないかと。
また、鎧の小札(コザネ)を通す威し(オドシ)紐は、普通には正絹の紐が用いられますが、この甲冑は真田紐が使われているとのこと。なぜ真田紐なのかと、人形師さんは不思議がっていましたが、何となく信州の人形らしくて納得してしまいます。
そういえばこの人形の甲冑装束は、時代的にはおそらく平安末から鎌倉期でしょう。有職の観点からすれば、神功皇后というより「巴御前」とでもした方が正当です。本町5丁目の「天神さま」ではありませんが、調査の結果、実は…。なんて事はないのでしょうか。
そんな心配も脳裏を過ぎる中、この神功皇后人形について、本町4丁目の前町会長・岩原さんから興味深い伝承を伺いました。もともとこの人形は、金舞台と呼ばれていたかつての大型舞台(現池田町1丁目舞台)に載っていたのですが、その頃には隣にもう一体、男性の人形があり、二体並んでいたというのです。舞台売却の際に、女人形は現在の舞台に移し載せたのですが、舞台が小さくて二体は載らなかったため、男人形は降ろされてそのまま行方不明になったといいます。
男人形とはもちろん武内宿禰です。
神功皇后と武内宿禰は夫婦ではありませんが、必ず対で表現されます。そして屡々武内宿禰はその胸に幼児を抱きます。神功皇后が新羅遠征の直後生んだ皇子、後の応神天皇です。
岩原さんに、その男人形は顎に髭を蓄えた老人ではなかったか、赤子を抱いていなかったか、など訊いてみましたが、いかんせん明治の昔の話で、ご自身もお祖父さんからの聞き伝えとのことで、詳細なぞ分かるはずもありません。しかし伝承のとおりなら人形は神功皇后で間違いないでしょう。
そうなると、その男人形の行方が気になります。
もしや「男人形なんぞ、いらねえや」ということで舞台と一緒に池田に送られたか?
池田町で舞台に詳しいはんこ屋の小林三郎さんに問い合わせましたら、さっそく調べてくれましたが、池田町1丁目にはそのような伝えや、人形の記録はないとのことでした。他の町にもそれらしい人形はなさそうです。
武内宿禰の行方は杳として知れません。明治の頃は人形の需要も今よりは多く、専門の人形師もいましたから、或いは太田鶴斎などに譲渡されて、祭り人形としての次の人生を送ったのかも知れません。
そういえば、この元本町4丁目舞台である池田町1丁目舞台には、現在は『神武天皇』人形が載っています。作者は太田鶴斎。大正2年の新調・搭載です。
池田下町(1丁目)が舞台を購入したのは明治27年。それから大正2年までの間、人形がどうなっていたのか不明ですが、およそ20年を経て、所縁深い松本の人形を積載したことになります。
神武天皇と云えば、中町2丁目舞台の制作は明治45年で、そこにも鶴斎の神武天皇人形が飾られていました。現在の像とは少し違うようですが、この頃鶴斎はたびたび神武天皇人形を制作しています。人気があり、鶴斎も好きだったのでしょう。(舞台保存会だより17)
池田町の神武天皇は、姿勢こそ違いますが松本の中町2丁目舞台の神武天皇と同じ顔をしています。近くで見ることはできませんが、鶴斎の人形ですから定めし細部まで精巧にできていることでしょう。舞台の下から見上げても、そのことは分かります。
ついでと言っては何ですが、太田鶴斎の舞台人形をもう一体ご紹介しましょう。
これは生坂村東広津の大日向という小さな集落の舞台とその舞台人形『加藤清正』です。
大日向地区は明科の南陸郷を過ぎ、陸橋を渡って国道19号を20分も下った犀川の西、橋向こうのほんとに小さな集落です。特別な用がなければ村人以外誰も行きません。その集落の一番奥に鎮座する大日向神社の祭礼で、加藤清正を載せた舞台は曳かれています。
昨年の10月初め、秋祭りの助勤を早めに切り上げて、大急ぎで生坂に向かいました。犀川を渉り、迷い迷い村奥を訪ねると、大日向神社では先ほど祭りが終わったところらしく、社前で村人がお船を解体し、舞台の上では人形も取り外して片付けようとしています。
「ちょっ、ちょっと待って。その人形、見せてください!」そう叫んで駆け寄ると、袴のまま舞台の2階に攀じ登り、拝見したのがこの人形です。
加藤清正像。本当に素晴らしい人形でした。頭(カシラ)や体躯の出来栄えは勿論ながら、身につけた衣類・甲冑はすべて本物です。鎧の小札も普通なら革で代用するところですが、鉄の小札が鉄鎖で編まれています。露出している肌は頭だけですが、手先から足元まできっちり作り込まれており、衣装甲冑はまさに誂えたように身に纏われていました。
太田鶴斎の人形というのは、ただ単にリアルというだけでなく、まさに活けるが如く。人形でありながら強い意思を抱いた人格のようなものを感じてしまいます。こういうことを入神の作というのでしょうか。
間もなく鶴斎作の加藤清正人形は、いくつもの古い木箱に分けて仕舞われてしまいました。年に一度、10月の祭りだけに組み立てられて舞台に載るのだそうです。
辺りの田は刈入れも終わり、稲を掛けたハゼが並んでいます。秋の陽は既に山蔭に落ちて、早い黄昏が訪れようとしていました。ほんとに静かな村です。
どうしてこの人形がここに来たのか分かりません。しかし、犀峡にへばり付くような小さな山里で、人形はおそらく100年以上も村人たちから大切に扱われ、愛しまれてきたことは沁みるように解りました。こういうものが本当の宝物です。
人形がただの木偶に見えないのは、当然のことかも知れません。