舞台保存会だより43 兎に牽かれて石取祭
兎に牽かれて石取祭
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一年も半ばを過ぎ秋を迎えて、いまさら干支の話でもありませんが、今年は卯年。舞台彫刻に登場する「うさぎ」を採り上げたいと思います。
社寺建築や山車の彫刻の素材として、うさぎは結構多く描かれています。愛玩動物としてはいつの時代も変わらぬ魅力がありますし、跳躍し疾走する様は飛躍や発展を感じさせます。多産であることも子孫繁栄を徴し、うさぎはめでたい動物でした。徳川将軍家では家門隆昌・嘉瑞の故事に倣い、元旦の膳に兎の羹を供したといいます。
小池町舞台や三郷・一日市場舞台の下層手摺りに描かれたうさぎは愛らしく、見るほどに心を和ませます。ともに清水虎吉の作で、うさぎの体の柔らかさ、鼻腔の細かな動きまで感じさせてくれます。家で飼って毎日観察していたのでしょうか。虎吉は龍や麒麟など霊獣も見事ですが、こうした小動物を描かせると実に上手いものだな、と感心します。
しかし、師匠の立川富種はその上を行きます。これは先だって改修された湯の原町お船のうさぎですが、登り龍・下り龍ならぬ登り兎・下り兎で、小品ながらその魅力は形容の表現が見つかりません。見ていると、思わず掌にしたくなります。先だって間瀬恒祥先生をご案内した際も、毛彫りの美しさ、観察され尽くしたうさぎの肢体の見事さに感嘆していました。
このうさぎの彫刻は、以前にも紹介した4面の大判彫刻・二十四孝図『剡子』図の囲り、繰縁部分を飾っています。因みに他の図の繰縁には「龍」「麒麟」「鳳凰」が、やはり登り下りで左右に描かれています。彼らは霊獣、空想上の霊威を持った動物です。実在の動物である「兎」が彼らと同格に描かれるということは、うさぎの霊性がそれほど高く見られていたのか、あるいは富種がうさぎを特に好きだったからでしょうか。
うさぎの彫刻を施した山車で、以前からぜひ見てみたい山車がありました。それは伊勢桑名の石取祭に曳かれる西舩馬町(ニシセンバチョウ)の祭車です。この山車の彫刻は文久2年(1862)、立川和四郎富重の作とされるもので、力神や鷹の図、鹿の図などとともに、通称『狂兎』と呼ばれる群兎の図は数ある立川彫刻の中でも破格の作です。そのリアルな表現は圧倒的で、近代彫刻でもこれを超えるものはないのかもしれません。
この彫刻には有名なエピソードがあります。
幕末の安政年間(1854-59)当時蔵前といった西舩馬町では新しい祭車を建造しました。桑名の祭車はまず本体を製作し、続いて彫刻、錺金具、幕類や漆塗りなど装飾を順次追加して、何年もかけて車を完成させてゆきます。新しい祭車の彫刻を誰に任せるか検討したところ、当時日本随一と謳われた立川和四郎に白羽の矢が立ちました。
この時蔵前の旦那衆の念頭にあったのは、桑名藩主松平家永公の父君、松平定信(楽翁公)と親交の深かった二代目和四郎・富昌だったのかも知れません。しかし、富昌は事故で安政3年に他界しており、桑名へやってきたのは息子の三代目和四郎・富重でした。
富重は文化12年(1815)の生まれですから、当時40歳ぐらいでしょう。職人としても棟梁としても脂の乗り切った男盛りです。彼は伴を連れ駕籠に乗り、威勢よく世話人宅に乗り付けたといいます。
世話人たちと話をする中、彫刻師には絵画の心得もなくてはならない、と語りますので、桑名の有名な絵師を呼び寄せて対話させますと、この道にも相当精通しており、これなら任せてもよいのではないかと。手付金五十両を渡して祭車彫刻を依頼しました。
ところがその後数年、一向に音沙汰なし。町の人が心痛を募らせていると、文政2年、すべての彫刻を仕上げて桑名へ戻ってきたそうです。祭車に取り付けてみるとその見事さに一同ただ感嘆。さっそく残りの代金・二百五十両を支払ったとか。
自信と矜持に満ちた富重の姿を髣髴とさせるエピソードです。才能もあり仕事もでき、富重という人は、まさに天下一立川の棟梁を自認した人物でした。最初世話人が諏訪へ使いを立てた時「番頭が来るとは何事だ!」と叱られて追い返され、あらためて主人が諏訪まで出向いた、という逸話もあるそうです。
さて、石取祭は桑名宗社・春日神社の例祭行事で、祭事の名称は氏子が揖斐川の河原石を拾い集め、神社に奉納するという献石神事に由来しますが、賑わい行事は城下町桑名一円におよそ40台の祭車が曳き出され、夜どおし鉦・太鼓を打ちまくるという、余所者には何ともよく解らない祭りです。天下の奇祭、日本一やかましい祭り、と言われます。
(桑名宗社と称される春日神社 桑名神社と中臣神社の合併社です) (社前に奉納された献石)
富重の彫刻もさることながら、40台の祭車(今年は38台)というのは素晴らしく、山車に関わる者として一度は見ておかなくてはと、8月最初の土曜日、仕事を半ドンで終わらせると桑名に向け車を走らせました。伊勢長嶋で高速を降り桑名市街に入ると、其処彼処から太鼓と鉦の音が流れてきます。祭り人や祭車の姿も見え、胸が昂まりました。
(太鼓を叩く桑名の子供たち こんな頃から桑名っ子の太鼓打ちは始まります)
桑名石取祭は毎年8月最初の土日に斎行され、試楽(シンガクと訓むそうです)と呼ばれる前日祭の開始は土曜・午前零時の「叩き出し」から始まります。したがって到着した夕方は祭りの始まりから既に12時間以上経過しており、宵からの試楽第2幕が始まろうとするところでした。
ホテルにチェックインすると部屋にも入らず、そのまま町に出て、鉦の音と人波をたよりに昼の熱暑そのままの桑名の町に泳ぎ出しました。
石取祭の祭車というのは、これまで自分が見てきた山車の中でも最もユニークで、どうも山車に対する思想が全く違うようです。祭車の上に建てられた秋田竿灯風の山形十二張提灯はそういうこととして、一見大型人力車か、牛なし御所車か、と見える祭車本体は、いったい誰がこういうスタイルを考え出したのでしょうか。
前1輪、後2輪の特殊な3輪車で、特徴的なのは左右の台輪材が轅のように前に延び(これを鬼木と呼びます)、内側に湾曲してその先端で小型の前輪を両側から挟みつけています。ここがなかなかスマートなところで、60年代のアメリカンバイクのようにも見えます。しかし、この前方から見せるスタイリッシュで優雅な姿は桑名祭車の本質ではありません。石取車の恐るべきは、そのお尻に吊られた大太鼓と、4つの鉦にあります。
祭車の尾部には巨大な胴長太鼓が吊られています。径が二尺七寸ほどから、大きなものでは三尺以上の太鼓もあるそうで(このサイズは普通の神社にも滅多にありません)さらに太鼓の周りに長い紐で吊られた4つの鉦鼓は、直径50センチほどもあり、太鼓と掛け合いでゴンチキチ…、と烈しく打ち鳴らします。(鉦鼓は摺るといいますが、これは雅楽の話で、桑名では思い切り打ち叩きます)そのけたたましいこと、譬えるならば踏切の警報機が一斉に10個も鳴り出したかのようです。
石取祭の間に太鼓は1,2台が革を打ち破られ、鉦鼓は2,3年で打ち壊されるため、各町毎年2個ほど新調するとか。太鼓の革は兎も角、金属の鉦鼓が叩き割られるというのは信じ難く、打ち鳴らしの凄まじさが解るでしょう。
桑名宗社・春日神社に参拝し、各所で始まった祭車の試楽町内練りを見ながら市内を徘徊していると、午後9時から駅近くの立坂神社前で試楽祭がある由。出かけてゆくと、神社鳥居前に第10組と呼ばれる5台の祭車が順々に詣り、鉦太鼓を打ち鳴らし始めました。社前の狭い辻に太鼓と鉦の音が鳴り響き、熱気が立ち込めます。音もさることながら、若者連を始め、中老連、大老、また少女連と、年代性別ごとの連が、次つぎと撥を受け渡し、思い切り腕を振って太鼓を打ち鳴らしていく様は、見ていても実に爽快で感動しました。
いつの間にか音に酔ったようになり、クラクラしながら再び春日神社を目指します。宗社前での「本楽叩き出し」は日付を改めて午前2時から。時間もあるので「少し休もう」とホテルに戻ってベットに体を投げると、もう朝まで起き上がることができませんでした。
翌日・本楽の朝、桑名の町は昼間は到って穏やかなものです。なにしろ祭りのピ-クは土曜と日曜のそれぞれ午前零時と2時ですから、真面目な祭り人は昼は寝ているのでしょう。
朝食を済ませてホテルを出ると、西舩馬町の蔵前祭車庫を探し訪ねました。本邦初のコンクリート造ということで、車庫自体が国の文化財に指定されています。鬼木と前輪だけがシャッターの前に出ているので覗き込んでいると、甚平姿の老人が来て「どうぞご覧下さい」と開けてくれました。文久2年・立川富重作の祭車彫刻を間近でじっくりと見ることができました。
(西舩馬町の蔵前祭車庫 明治初期のコンクリート造で国の指定文化財だそうです)
(西舩馬町祭車の後部 太鼓掛け彫刻の「松に鷹」と側部の「力神」)
太鼓掛けの鷹と力神、水引欄間にぐるりと廻らした粟穂に鶉も見事ですが、やはり階段側の通称「三角」と呼ばれる部分に嵌められた群兎の図が圧倒的です。この図に「狂兎」という呼称はいかがかと思いますが、本当にうさぎが跳び出してきそうな勢いに名の由来があるのでしょう。中央で跳躍するうさぎは、実物そのままに立体的に彫られ、思わず両手で掴みたくなります。その毛並みも普通の繊細な毛彫りではなく、茨の野を駆けるうさぎの強い毛を再現しています。これは明らかにラビット(rabbit/熟兎・飼うさぎ)ではなく、ヘアー(hare/野うさぎ)で、猟師も手こずる剽悍狡知な野生の野うさぎです。
只管感嘆しつつ祭車を廻っていると、先ほどの老人がいろいろ逸話や知識を教えてくれました。老人は加藤さんと仰り、ご先祖が富重に彫刻を依頼した、その家の方だそうです。その頃は桑名でも一、二の材木商で、木曽や紀州の材木を扱い、流通都市桑名を代表する商家でした。当時この蔵前・西舩馬町は蔵ばかりで商家が九軒しかなく、祭車建造はその九軒で負担し、彫刻の誂えは加藤家が担ったといいます。
加藤老の先祖は彫刻がなかなか出来ないので、商売柄木曽へ出かける折に脚を延ばし、諏訪の立川を度々訪ねたとか。その際、毎回手土産に十両ずつ置いてきたそうで、大商人とはいえ豪儀なものです。その結果がこのような見事な作品となって現代に残ったわけで、文化は金では買えませんが、金の使い様が文化を生み後世に残ります。石取祭もそうした桑名の町の経済力と、町人の心意気が生み育んだ祭りと言えるのではないでしょうか。
蔵前車庫の裏は運河のような旧船着き場で、かつてはこの周囲に大きな蔵が林立していたといいます。往古の繁栄が偲ばれました。
午後になると本楽渡祭に向け、炎暑の中40台の祭車が三々五々大通りに集まり始めました。本楽渡祭は日曜の午後6時30分から。祭車は籤順に桑名宗社前に進み、ここぞと打ち鳴らして渡祭を行います。最終の車が渡祭を終えるのは夜の零時を大きく回るそうです。
兎に牽かれてとは云え、石取祭に試楽も本楽も肝心なところに居合わせないとは情けない話です。来年は夜行列車で桑名に乗り付け、試楽「叩き出し」に間に合いたいと思います。