舞台保存会だより37 本町5丁目舞台の修復開始
本町5丁目舞台の修復開始
(掲載の写真はクリックで拡大します)
去る1月27日、本町5丁目舞台の魂抜き・清祓式が深志神社神前で執り行われ、舞台修復が始動しました。これが13台目の舞台修理、平成の舞台修復事業もいよいよ大詰めを迎えようとしています。
ところで、この本町5丁目舞台、写真でご覧いただいても明らかなようにこれまでの深志舞台と形態が違います。まず、二階屋根がありません。雨天に備えて仮設の非常取り付け屋根はありますが、他の舞台のように屋根を支える通し柱というものがなく、基本露天の舞台です。また、一階と二階部分をつなぐ支輪部、更にそこに懸かる小屋根(庇屋根)もなく、当然その庇を支える「持送り」というような部品もありません。したがってワゴンの構造は角材を四角い箱に組み上げただけの極めてシンプルなものです。
しかし、山車としてこの舞台を見たとき最も大きな特徴は、台輪部分が存在しないその車体構造にあります。
(本町5丁目舞台構造図 土本研究室による) (一般の深志舞台の構造図)
これは深志舞台に限りませんが、山車の構造というものはベース部分に自動車のシャシーに当たる強固な台輪を築き、この台輪に上下からの力を持たせて、下部に車輪を取り付け、上部にワゴン・建造物を組み上げます。したがってこの台輪部を構成する部材は一車中もっとも重厚で強い木材が使われ、その先端は舞台の前後に突き出し、鉄金具などで鎧われ、舞台に堅固で引締まった印象を与えています。
ところが本町5丁目舞台はこの台輪になる部分が見当たらず、本来台輪材の上に建つはずの縦柱が、そのまま宙に浮いて終っています。
また、この舞台に印象的な大きな御所車型車輪、その車軸はワゴンの下部を貫いて取り付けられており、よく見ると不思議。マッチ箱に横から穴をあけて車軸を通したような造りで、よくこれで壊れずに動くものだなと感心します。おそらく一階の床下に補強をして車軸を支えているのでしょうが、軽量舞台にして漸く許される特殊な仕掛けなのでしょう。
この5丁目と同じ構造の舞台は深志舞台の中に何台かあります。まずは姉妹車というべき本町4丁目舞台。そして伊勢町1丁目舞台と、おそらく宮村町1丁目舞台も基本的にこの仲間かと思われます。ただ伊勢町と宮村の舞台は過去に、屋根を取り付けるための大きな改造を受けてきました。このため本町の2台とは違った顔を見せています。
さて、この本町5丁目舞台、由緒が必ずしも明らかではありませんが、建造は概ね明治の初年ころと伝えられています。これは本町4丁目も同じで、おそらくほぼ同じ時期に同じような事情で造られたものと思われます。
本町4丁目の元の舞台が、現在池田町の1丁目(下町)舞台となっていることは、今ではよく知られています。北安曇郡池田町には八幡宮の例祭に曳かれる舞台が8台ありますが、その中で最も風格のある舞台がこの1丁目舞台です。この舞台は明治27年(1894)に松本本町4丁目から250円で売却されました。平成12年に大改修がなされ、その時の調査では売却より100年以上前に建造されたものと推測されました。百年前とすると寛政年間(1789?1800)まで遡りますが如何でしょうか。私は古くとも文化・文政期(1804?29)ぐらいかと推測しています。
写真で見ていただいても分かるように、江戸後期、深志舞台が最も華やかで完成されていた時代の見事な舞台です。全体のバランスが良く重厚。輪覆いは網代型、左右の窓部分には蔀戸が掛かり、これは他では博労町の舞台にあるだけです。彫刻は一階手摺や泥板あたりを中心に、素木の花紋や波千鳥など。派手ではありませんが舞台全体を流麗にまとめており、実に気品があります。
(池田町1丁目舞台正面の彫刻)(池田町1丁目舞台側面)
こうして明治の初めからこの舞台が売却される明治27年までの間、本町4丁目には2台の舞台があったことになります。町の人々は池田町に売却されたこの舞台を「金舞台」と呼び、現在町内にある舞台を「ドンガラ舞台」と呼んでいたそうです。ドンガラとは多少とも蔑称で、乱暴に扱うべき舞台といった意味でしょう。屋根がないのもそのためで、当初この舞台が出場するのは飴市のときで、時節柄あまり雨の心配もないし、よしんば降られても別に気にするような舞台じゃない、というような扱いをされていたようです。要はサブの舞台でした。
そして本町5丁目にも、やはり金舞台があったようです。5丁目の人はこの元の舞台のことを「貝磨り(かいずり)の舞台」と呼んでいました。
貝磨りとは蒔絵技法の一種で、真珠質の貝殻を細かな粒にして漆で塗り込め、研き出す装飾塗です。螺鈿の一種とも言えます。つまり貝磨りはお金と手間のかかった技法で、極めて豪華な舞台という意味になります。
何時ごろか、また何処へか分かりませんが、この舞台も売却されました。町の古老には、子供の頃どこか遠くの村か町で「これが元の5丁目の舞台だ。」と言って立派な舞台を見せられた記憶のある方がいたそうです。しかし、それが何時で何処なのか、憶えていないのだとか。なんだか夢の中の話のようです。
私も時に夢のようにその貝磨りの舞台のことを想います。
昭和の初めごろか、絣の着物姿の少年の前を通り過ぎて行く夜祭りの舞台。寂しげな囃子の笛の音が聞こえ、提灯を揺らしながら宵闇の中を進んでゆきます。古い映画の一場面のような空想の情景ですが、今でもどこかで5丁目の貝磨りの舞台はそのように曳かれているのかもしれません。
噂でも、もしこの舞台の所在をご存知の方がいらしたら、ぜひ教えてください。
それにしても4丁目も5丁目も、なぜドンガラを残して金舞台を売ってしまったのでしょうか。本町2丁目や伊勢町の舞台も同様ですが、この理由は今もって謎で分かりません。町の困窮か、舞台に対する情熱の低下か、あるいは何か大型舞台を運行できない事情が生じていたのか。いずれにせよこの問題は「舞台保存会だより」の大きなテーマとして今後も調査・研究していきたいと思っています。
(クレーンで吊られトレーラーに積まれる 小型軽量とは云え…)
2月8日、例により清水の松本建労会館で本町5丁目舞台の修理審査委員会が開かれました。会館の実習室に入ってみますと、予想していたとはいえあまりの部品の少なさに改めて驚かされました。屋根や台輪部分がないため、細めの角材が作業台の上に並んでいるだけ。彫刻がないのも、とても淋しい。(少ないのではなく、ないのです。彫刻というものは唐草模様さえも全くない。)前回が湯の原お船で、その部材の多さに圧倒されたのが昨年の秋ですから、そのギャップに唖然としました。
隅のほうに大型の御所車が立てかけてあり、唯一これが強く存在感を主張しています。
その隣の大きな車軸受け材に目をやると、
「ああ、それは違うでね。それはよそのやつ。湯の原のやつだで。」と、山田棟梁。
湯の原お船の車軸受け材は巨大で塗装の必要もないため、組み立ての時までここに置いておくつもりなのです。棟梁はいたずら現場を見つかった子供のような表情で、笑いながら手を振りました。
車輪といえばもう一つ。後輪の小型車輪です。本町5丁目の後輪は輪も軸もすべて鉄製で(もちろん何時の時代にか傷みのために総鉄製に付け替えたのですが)祭で曳くときはキュルキュルと、実に優雅ならざる摩擦音を発生させます。ガラガラ舞台とも称され、この音のため本町5丁目舞台は姿を見ずともその接近が分かると言われました。
それにしても5丁目の人たちはこの音の対していかなる感情を抱いているのか、(愛着か羞恥心か、はたまた優越感か)以前から気になっていたのですが、やはり恥ずかしかったらしく、今回もとの木製車輪に作り直す計画のようです。
さて、今回の本町5丁目の修復には、このような些事でなく重要な特筆大書すべき計画があります。それは長く舞台庫で埋もれていた舞台人形の修復・積載という事業なのですが、長くなりましたので次回の記事にしたいと思います。