舞台保存会だより35 伊勢町3丁目舞台の修復完了
伊勢町3丁目舞台の修復完了
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先月の21日(11月21日)伊勢町3丁目舞台が修復を完了し、深志神社神前で入魂清祓式が行われました。舞台保存会が発足し、平成の舞台修理事業が始まって12台目。舞台修理審査委員会と修理プロジェクトによる修復舞台としても10台目になります。
当日は早朝から抜けるような青空でした。境内の樹々がほとんど葉を落とし空が広いためか、陽も射さないのに何故かむやみに明るい。冬の初めには時折そんな朝があります。
神前に曳き据えられた舞台は、初冬の澄み切った空気の中で艶やかに輝いていました。
今回の伊勢町3丁目舞台の修復では金物関係で2点ほど特徴があります。ひとつは二階の大屋根が銅板で葺かれたこと、もう一点は錺金具、特に高欄下の八双金具の金箔処理の仕方についてです。
深志舞台の二階の大屋根は通常、屋根板の上にカンバスが張られ、その上を漆塗りで仕上げられています。しかし伊勢町3丁目舞台では銅板で葺かれていました。実は他にも銅板葺きされていた舞台があって、それは昨年修復された伊勢町2丁目舞台ですが、修復にあたって屋根を剥がして見ると、明らかに元は屋根板の上にカンバス張り漆塗り仕上げであったことが判り、この度はオリジナルな姿に戻されました。
しかし、今回の伊勢町3丁目舞台では屋根の下地にカンバスや漆塗りの形跡がなく、したがってこの舞台は銅板葺がオリジナルということで、そのように修復されました。
舞台の二階屋根上の様子というものは、常に下から見上げますからよく分からないもので、まして大屋根の上に雨除けの幌を掛けて出動するのが正式(?)の深志舞台では、その素材や仕上げなど殆んど念頭に上ることもありません。でも伊勢町3丁目舞台が新しい銅板で葺かれた以上、一度はこの舞台がキラキラと屋根を輝かせながら町を往く様を、どこか高いところから見てみたいものだと思っています。
(修復直後の舞台 舞台庫前にて) (新しく葺かれた銅板屋根)
錺金具については(舞台保存会だより14)でも取り上げましたが、仕事の丁寧な良いものだと思います。特に高欄下の波千鳥の八双金具はたいへん好ましい。
金具修復を担当した松本漆器工業組合の碇屋さんによると、この八双金具は下地にベンガラの朱漆を施し、磨き上げた上に箔押しして仕上げてあるのだそうです。(元々がそういう仕上げです)金箔を重ねてしまえば下地の色など関係ないようにも思いますが、箔は翳せば向こうが見えるほどの薄い膜のようなもの。光を受けると下地の朱色が滲むように洩れてきます。金色に独特の深みと色気が加わって大変美しい。新しい伊勢町3丁目舞台をご覧になる時は、ぜひ注目していただきたいところです。
入魂式には3丁目の町会役員さん以外にも、多くの町の長老やご婦人方も集まりました。
「うちの舞台は軽いし、彫刻も少ないし…」などと卑下しつつも、町の人々の愛着の深さを感じさせます。町の古老が杖を突きながらも法被を着て舞台に寄り、美しく生まれ変わった舞台を懐かしむ姿は、見ていて心慰められました。
(祓いを受ける3丁目の人たち) (神事風景 町会長玉串拝礼)
さて、伊勢町3丁目舞台につきましては改修解体の折、屋根裏から墨書も現れ、いくつかの新事実も判明しました。(舞台保存会だより27)
それによれば当初の制作は伝承に拠り明治25年としても、大正11年に大きな改修工事が施され、現在の姿の舞台が完成したと考えられます。それがどのような工事であったか、原型はどうだったのか、精確なことは解りませんが、墨書には大工棟梁から始まって、彫刻、金具、塗り、と全部の職人の名が記されていることからして、殆んど全面改造に近い、かなり大掛かりなものであったことは間違いありません。実際、今回の解体作業の中で台車部分に古い臍穴の痕跡が発見され、これを古い舞台の臍穴と考えれば、大正11年以前の原型は、二階屋根の全くない形式か、あったとしても今よりかなり小さな屋根の舞台であったろうと推測されました。
現在の彫刻や錺金具もこの時取り付けられたものと考えられます。
二階屋根のない舞台。そういう舞台はかつて深志舞台としてこの町に運行されていました。そして、いまでも一部町会の舞台庫の中に眠っています。本町1丁目と本町2丁目の先代舞台です。
本町1丁目の簡易舞台についてはこういう姿のものですが、その由緒についてはよく解りません。ただ町会の「舞台建設記」によると、本町1丁目では明治21年の松本大火により舞台を焼失させました。その後半世紀以上も本格舞台の建造はなく、漸く昭和15年、現在の大型舞台が建設されましたので、その間はおそらくこの簡易舞台が本町1丁目舞台として運行されていたものと考えられます。但し繰り返しますが、この簡易舞台がいつ建造されたのかは「舞台建設記」にも記述がなく、分かりません。
この舞台、或いは大正ロマン風なのか、ハイカラでお洒落な姿ですが、何とも頼りなく、大売り出しの宣伝カーみたいで、本当にこれを曳き回していたのかなと、当時の壹丁目の旦那衆の心中が思い遣られます。
(旧本町2丁目舞台 舞台庫内の建築材やごみと一体化していてほとんど隠し絵状態)
一方本町2丁目の舞台はこんな風で、大変オーソドックスな姿をしています。本格舞台に比べるとかなり小振りで、派手な錺金具や彫刻の類は一切ありませんが、木部は太さもあってしっかりとしたもので、これに二階屋根と通し柱を取り付ければ、もう立派な基本・深志舞台です。
この本町2丁目舞台については、町に記録も残り、明治11年6月に建造されたことなど由緒が確認されています。当時はまだ町内に本格舞台(明治21年に大町大黒町に売却されたもの)が、あった筈ですが、すでに曳き出されることはなかったのでしょうか。いずれにせよこの簡易舞台は、昭和9年に現在の舞台が出来上がるまで本町2丁目舞台として曳航され、更にそののちも運行されていたようです。
(旧本町2丁目舞台 二階刎高欄部分 同じく車輪 同じく台輪部)
これら二階屋根なしの舞台は、町会ではしばしば「飴市の舞台」と呼ばれ、昭和30年代頃まで正月の飴市の際に、市神社の神輿本殿とともに市内に曳き出されていました。屋根がない代わりに舞台の中央に松の木を立てていたそうです。その姿を写真でも見たことはありませんが、松はかなり大きなものだったようです。
舞台(山車)に松を建てることは深志舞台だけでなく、各地の山車行事の古い記録にも見られます。おそらく、現在でもどこかで行われているのではないでしょうか。
松には高木信仰や、神の依り代としての民俗学的な意味合いがあるようです。お正月の門松もそうですが、松は神を招く、或いは神がそこに依る木とされます。また、天神(天に坐ます神)は、高い木をその階梯として地上に降ると考えられ、松はその最も相応しい木とされました。
松を建てた山車を曳き回すということは、神を市中に招き降ろし、曳き出すということであり、神の霊威を遍く衢に布き拡めるということでしょう。そうしてみると、二階屋根のない舞台のほうが、宗教的機能としてより本来の舞台(山車)であるようにも思われます。民俗学的な山車の発生史からみると、それが山車の原初の形なのかも知れません。
明治25年に建造されたとされるpri-伊勢町3丁目舞台というのは、案外こんな姿だったのではないでしょうか。
それにしても、この伊勢町3丁目舞台、改造された舞台にありがちな不自然さが全くありません。バランスの取れた典型的な深志舞台です。あたかも最初からこのように設計されたかのようで、実際、今回の解体による墨書の発見まで大正11年の大改修のことはまったく分かりませんでした。
大工棟梁・立石利喜太郎を始め匠達の知恵と技でしょうか。