舞台保存会だより33 県宝『湯の原町お船』の修復いよいよ始まる
県宝『湯の原町お船』の修復いよいよ始まる
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これまで何度かお伝えしてきた里山辺「湯の原町お船」の修復作業が、いよいよ始まりました。6月の起工神事から少々時間がかかりましたが、お船は県の文化財、慎重な審査が必要でした。9月13日から船蔵の中で解体作業が始まり、数日かけてバラされた部材は例によって清水の建労会館に運ばれ、さらに細かく解体されていきました。
私も14日の日に様子を見に行きましたが、すでに大屋根は外され運び去られた後で、船蔵の床には剥された銅板が散らばっています。改めてこの船の屋根が銅板葺きされていたことを知りました。船の二階では二人の職人さんが解体手順などを打ち合わせながら慎重に作業を進めていました。
表でその作業を見ながら何やかや指図をするようにガナッている七十絡みのおっさんがいます。すでに引退した先輩の大工さんかな、と思って聞いていると違うようで、どうやら若い頃はこのお船を曳き回していた近所の老人らしい。お船が修理されると聞いて矢も盾もたまらず出てきたようです。彼はやはり様子を見に来た誰彼を捉まえ、昔の曳き回しのこと、お祭りのこと、青年団のことなど、なにやかや説教でもするように話しています。迷惑な話だと思いつつ聞くともなしに聞いていると、
「おれらの頃は、これしか遊ぶものがなかったで…。」と、呟くように話したのが心に残りました。
お船というものは村の青年の遊び道具で、そのお船を仲間とともに操って祭礼に臨むことは遊びの究極です。祭りと遊び、それはほとんど同義語です。天の岩戸神話を見れば知れるとおり、祭りとは神と飲食を共にし、神々と一緒に遊ぶことです。
山辺の青年たちは高価なおもちゃをもっていました。祭りになると九つの組の若者たちがそれぞれ自分たちのおもちゃを持ち出して曳き回し、競い張り合い喧嘩までして神前で遊びます。一年に一度の祭りの到来は、楽しみというものの少なかった昔の若者たちにとってどれほど待たれるものだったことでしょうか。それだけに祭りに懸ける情熱は激しく、若者たちにはお船と言うと、滾る気持ちと別けて思うことなどできません。
船蔵の前のかつての青年は、どうやら大切なものを船の中に置き忘れてきたらしく、「近頃の若い連中は船を扱わせてもロープ一つ結べねえし、神前の礼儀も知らねえ…。」などと苦言を言いながら、いつまでもお船の前を離れませんでした。
(大屋根を外したあと 虹梁と木鼻獅子の頭部分) (お船の内部 競り上がりの 仕掛け)
そして9月29日、松本建労会館に解体を終えたお船を展示して、修理審査委員会が開かれました。参加者は例によって深志舞台の修理審査委員の中川治雄先生、降幡広信先生、信州大学土本先生と学生さんたち、市の教育委員会の田多井さん、修理プロジェクトの職人さんたちと町会の皆さんです。
建労会館作業室に入って、まずその部材の多さに驚きました。作業室の隅々まで整然と配置して並べてあるのですが置ききれません。角材木は重ね、台輪部分はテーブルの下に。錺金具など金物類は完全に展示場所を奪われ、台の下にひとまとめにされていました。
これまでの深志舞台の解体ではこのようなことはなく、改めてお船というものは大きなものだと実感しました。
(解体展示された部材) (古い番付も見える「い・ろ・は…」は山田棟梁のもの)
彫刻も置ききれず例の二十四孝の大判彫刻などは台の下に立てかけてあり、うっかり蹴とばしそうで心配になります。その上には支輪部の彫刻『牡丹と唐獅子』が折り重なるように並べられていました。
この牡丹獅子はおそらく立川富種の手になるものと思われますが、立川一門の最も完成された図像のひとつと言えます。
諏訪市博物館に「宮坂文書」と呼ばれる立川常蔵昌敬(宮坂常蔵)由来の建築彫刻下絵が保存されていますが、この中に10枚の『牡丹に乱獅子』図の下絵があります。これは天保8年(1837)に製作された半田亀崎の山車「神楽車」の二階高欄地覆彫刻の下図で、牡丹の中に10頭の大獅子と4頭の子獅子が描かれています。一方湯の原町お船には9頭の大獅子と5頭の子獅子が彫られているようです。若干の違いはありますが、獅子たちの主要なポ?ズは同じで、立川流の最もスタンダードな獅子図と言えるのでしょう。
先に半田亀崎を来訪の折、山車を下から見上げると知多型山車の二階高欄というのはとても高いところで(多分4.5mぐらいか)なんであんな遠いところに立派な彫刻があるんだろうと思いながら、腕を伸ばしデジカメのズームをいっぱいに引いてファインダーの中に高欄彫刻を捉えた時、それが手毬獅子とでも言うのでしょうか、透かし彫りの毬を前足に遊ばせる獅子の図で、見覚えのあるその姿にハッとしたのを覚えています。
(半田亀崎「神楽車」の手毬獅子) (湯の原町お船の手毬獅子)
もと本町2丁目の大町大黒町舞台にも彼ら牡丹獅子は同じポーズで登場します。これはやはり天保9年(1838)の完成。この舞台は天保3年頃から大工・幸三郎(原田幸三郎)が制作にかかり、彫刻はすべて諏訪の和四郎(立川富昌)が担当したとされていますので、亀崎の田中組神楽車(立川常蔵昌敬作)と現大町大黒町舞台(幸三郎・富昌作)はほとんど同時にそれぞれの地(亀崎と松本あるいは諏訪)で製作され、ほぼ同じ下絵による唐獅子彫刻が施されたことになります。
それから約20年後、富昌の子・三代和四郎富重とその弟専四郎富種(啄斎)により、「湯の原のお船」が制作され、牡丹獅子も継承されお船の高欄下を飾ります。(因みに立川常蔵昌敬(宮坂常蔵)は富昌の婿、富重・富種にとっては義理の兄であり兄弟子にあたります。)ですからこれら獅子たちは親子兄弟のような関係ということにもなりますが、どれも甲乙つけがたく本流立川の凄みを感じさせてくれます。
(湯の原町お船 牡丹を咥えた獅子) (大町大黒町舞台 牡丹を咥えた獅子)
修理審査委員会は引き続き建労会館3階の会議室で修理方針検討会が開かれ、土本研究室による状況・方針発表と、各担当者・職人さんたちから部材の状況報告と修理方法・方針が示されました。全体に大きな問題はなく、大屋根は引き続き銅板で葺かれることになりました。3月の竣工を目標にいよいよ修復作業が本格化します。
報告事項をもう一つ。10月2日「神道まつり」に舞台が出場し、秋晴れ空の下大名町に展示されました。伊勢町3丁目舞台を除き17台。昨年は荒天で行事が中止になりましたので2年振りの大名町展示です。今年の先頭(千歳橋近く)はこの春竣工したばかりの本町2丁目舞台。屋根幌も外しすっきりとした姿で出場してくれました
帰り道では伝承スクールの子供たち12人も町の子供たちと一緒に舞台に乗り、お囃子をしながら帰ります。舞台・お囃子行事も今年はこれで納めです。低く射し込む柔らかい日差しを受けて千歳橋を渡ってゆく舞台を見ながら、漸く今年の秋の深まりを感じました。