舞台保存会だより32 尾州半田亀崎『潮干祭り』
尾州半田亀崎『潮干祭り』
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五月のたよりで触れましたが、春の連休に祭の合間を縫って半田の山車祭りを見に行ってまいりました(舞台保存会だより29)。来松された間瀬恒祥先生の話を聞くうち、どうしても半田の山車、潮干祭りというのを見てみたくなったからです。今回はその報告ですが、印象が多いため少し趣向を変えます。
その前にまず半田市亀崎という場所ですが、半田市というのは知多半島の中ほど、常滑市セントレアの反対側で三河湾側の付け根の辺りにな
ります。人口は12万人ほど。衣浦という河口湾の奥港が半田市亀崎町で江戸時代は廻船港として大いに栄えました。また醤油や酒の醸造も盛んで、かつては大きな蔵が軒を連ねる製造流通の拠点都市だったそうです。そういう豊かな都市の町人に支えられ、素晴らしい山車文化が花開きました。
半田市内には合計31台の知多型と称される山車があり、3月から5月にかけて各地区の春祭りで曳かれます。うち5台がこの亀崎地区にありますが、亀崎の山車は知多型の元祖であり、またその精華であるといわれます。
【知多型YAMAGURUMA】
半田では山車を「やまぐるま」と呼びます。「山車」と書いて「だし」と訓むのが一応教養としたものですが、ここではそのまま「やまぐるま」。しかし知多型と呼ばれるこの山車はたしかにヤマで、その曳航は巨大な山塊が動くかのようです。
高さは6m前後あるのでしょうか。三階建てと見えますが、分厚い台輪の上に胴山と呼ばれる大きな一階部分と、上山(うわやま)と呼ばれる階上部が乗る二階建てです。この上山部分は競り上がり式で、停止時は柱が競り上がって大きく開き、曳き廻しの際には低く閉じて山車全体の重心を下げます。江戸期の深志舞台や山辺のお船と同じ仕組みでしょう。
一階部の胴山正面は唐破風屋根を設えた前山と呼ばれる社殿建築となっており、側面と後方は羅紗の大幕で覆われています。上山も四方を高欄で囲わせた唐破風の宮形、後部は見事な刺繍を施されたな追幕に飾られ、知多型の山車というものは前面木部を華麗な宮形と精緻な彫刻に埋め尽くし、側・背面では祇園の鉾にも劣らぬ豪奢な幕が綺羅を競う、実に贅沢な代物です。
【台輪と車輪GOMA】
背高な山車を支える台輪は分厚く(6,70?はあるでしょうか)ものすごい重量感があります。実際この台輪部まで重心が降りてこないと、山車の曳き回しは危険極まりないものになるでしょう。車輪は内輪式で四輪。覗き込んでびっくりしました。幅が30cmほどもあります。亀崎の山車は砂浜に降りるためこの幅が必要なのだそうです。
『材質は何ですか?』
『松の輪切り材です。』
『輪切り?まさか!すぐに割れてしまうでしょう。』
『ええ、ですからお祭りが終わると取り外して輪だけ海辺の砂浜の下に埋めます。乾燥を防ぎ材の強度を保ちます。』
亀崎ではこの車輪のことをゴマと呼ぶそうです。ゴマは本当に砂浜の泥の中に埋められ、祭りの近づいた4月上旬に掘り出されます。これを「ゴマ掘り」といいます。始まる前から潮干祭りです。
【彫刻・壇箱】
ここの山車彫刻は写真を見てもらえばもう何も言うことはありません。残念ながら深志舞台の彫刻とは次元の違う代物です。
(東組宮本車・前山下魚「松に親子鷹」) (石橋組青龍車・前山斗組)
(中切組力神車・前山向拝部と虹梁上の「子持ち龍」・和四郎富昌作)
(田中組神楽車・前山向拝部「三国志・桃園の誓」ほか・常蔵昌敬作)
それを象徴するのが「壇箱」の存在でしょう。壇箱という概念は我々にはないものですが、知多型山車には前山の下部、丁度大人の顔の高さに見せを張った彫刻のスペースがあり、これが壇箱と呼ばれる部分です。
(宮本車壇箱「竜虎図」瀬川治助重光作) (力神車壇箱・和四郎富昌作)
壇箱彫刻には立川富昌を始め山車を手掛けた名人が、その名を賭けて最高の技術を注ぎました。中でも田中組神楽車の壇箱・立川常蔵昌敬作の「蘭亭の庭」はまさに入神、人の手で創られたとは信じ難いほどの出来栄えです。
(神楽車壇箱「蘭亭の庭」左右は蝦蟇仙人・鉄拐仙人・常蔵昌敬作)
【衣装】
亀崎潮干祭り山車行事は五つの地区「組」組織で執行され、組ごとに極められた装束を着用します。基本は手甲脚絆腹掛けに組看袢を羽織り、足元は白足袋に草鞋掛け。大人から子供まで例外はありません。ハッピの下はTシャツ・ジーンズでスニーカー履きなんて奴は一人もいません。
(この人は指令長・運行の最高責任者)(組によって組看袢も柄が違います)
(子供たちもこの通り)(間瀬先生 この衣装は宿老格 きまってます)
組看袢も役割ごとに違って統一されていますから、町の人には何組の何役か一目見るだけですぐに分かるようです。良い意味で組織だった軍隊を見るよう。戦国時代の侍や部隊というのはこんな感じだったのではないでしょうか。この合戦部隊の如き組が一纏まりになって山車を曳き回す様は、豪華な山車以上の見物です。
【からくり・人形芸能】
お旅所・尾張三社前の広場では山車の上山で人形芝居の芸能が披露されていました。三番叟や浦島太郎、船弁慶といった伝統的な演目。からくり唐子の綾渡りもあります。飛騨高山祭で見るような人形芸能まで見られるのは堪能のいくことです。
(芸能風景 一台ずつ演じられてゆく) (人形と操る少年・宮本車)
(浦島太郎 太郎が老人になったところ・力神車) (唐子の綾渡り・花王車)
また、前山の正面には前棚人形と呼ばれる人形が設置されており、豪壮な山車を常に優雅に整えているのは心憎いばかりです。
(青龍車前棚人形・布さらし) (花王車前棚人形・お祓い神主さん)
【曳き回し、サヤ納め】
亀崎の潮干祭りは神前神社(かみさきじんじゃ)例大祭の神幸行事として行われるもので、本社とお旅所・尾張三社の間を往き来します。社殿前では勇壮な曳き回し行事が繰り広げられ、これが祭りの大きな見どころでしょう。
神前神社前の曳き回しは時間の都合で見ることが叶いませんでしたが、尾張三社前の曳き出しは黄昏時というシチュエーションもあって凄い迫力でした。
前日祭の夜、山車は各組の「サヤ」と呼ばれる倉庫にいったん仕舞われます。サヤ納めと称されるこの行事もどことなく儀式めいて心に残る景色でした。
(サヤに収まった山車と子供たち) (亀崎の町 山車が納まると通りは真っ暗)
【神楽とお囃子】
翌日の朝、山車は再び尾張三社前に静かに集結しました。そして人たちは組ごとに三社神前に進み、神楽の奉納がはじまりました。宮流神楽というのだそうです。
小学生の子供もきちんと組の衣装を着て祭りに参加しています。彼らは大人と一緒に綱を引き、山車の中では曳航中も笛太鼓でお囃子をします。
【町内曳き】
(三社前 山車が間隔をあけ「棒締め(舵棒を本体に締め直す)」をする)
二日目の山車行事、尾張三社を出発した山車は列をなして神前神社前の浜を目指し亀崎の町を進んでいきます。古い町の例に漏れず亀崎の通りも狭い。山車が浜に降りるのも、昔は神社近くの道が狭くて山車が通れず、やむをえず浜を通っていたのが始まりだとか。
手を伸ばせば触れそうな狭い路地を、肌脱ぎの若者が渾身の力を込めて舵を切り、追幕が軒をかすめるようにして行く様も風情です。
【潮干祭り】
亀崎町神前神社前の砂浜に集結した山車は、一台ずつ浜を下って海に入って行きました。『山車が海に入る?!神輿だったら解るけど…。』
間瀬先生から聞いても俄かに信じ難く、どうしても見たくなった光景が目の前で繰り広げられるのを見て、私は静かに感動しました。
潮干祭り。本当に舞台が潮に浸かるんですねぇ。山車たちが、なにか海辺で遊ぶ巨きな子供のように感じられました。
(潮に浸かり波打ち際を進む山車たち 転倒しないよう横から綱で引っぱっている)
【力神】
おしまいに間瀬恒祥先生もお奨めの中切組力神車の力神に登場願って、今回を閉じたいと思います。
この山車と力神を制作したのは諏訪の立川和四郎、二代目の富昌です。富昌とこの亀崎とのつながりは、文化12年(1815)亀崎の素封家三代目成田新左衛門が遠州秋葉山本宮に代参の折、富昌刻の力神に感銘し、態々諏訪まで赴いて力神の製作を依頼したことに始まります。鄭重な礼に感じた富昌は、文政元年(1818)弟子の常蔵昌敬とともに彫りあげた力神を背負って亀崎にやってきたと伝えられます。
「力神を背負って…」谷深い信州の山道、峠を越えてゆく二人の姿が目に浮かぶようです。険しい山道を踏み越え、やがて明るく海辺に開けた亀崎の地を見下ろした時、二人の匠の胸の内は如何ばかりだったのでしょうか。
それから富昌たち諏訪立川流の匠達はこの豊かな知多の地に根を下ろし、新しい山車文化を築いてゆきます。
力神車・力神の背には次のような文字が刻まれていました。
『信陽 諏訪湖東 立川富棟 ……刻』
(力神・吽形の背の刻銘 上記のように彫られていますが三行目がよく読めない)
富棟は初代和四郎(1744~1807)。富昌の父で既にこの世には在りません。父の名を用いるということは、新しい地で富昌がその最高の仕事をする覚悟を示すサインです。
半田亀崎の浜辺で、これから潮干に進む力神の背にレンズを向けながら、同じ信州人として胸の熱くなってゆくのを感じました。