舞台保存会だより31 夏祭り、平成中村座と天神まつり
夏祭り、平成中村座と天神まつり
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松本の町に中村座の歌舞伎が還ってきました。二年前の記憶が甦り、暑い夏が予感されます。
一昨年は3台の舞台と80余名のお囃子の子供たちを率いて「信州松本大歌舞伎 お練り」に参加しました。初めてのことでもあり子供たちを舞台に分乗させることから、もろもろの手配準備、猛烈に大変で例祭を前にして完全にテンパッてしまいました。当日市内は5万人と言う人出で、その中を真夏の太陽に炒られるように行く舞台と人の波は殆んど幻のよう。「真夏の昼の夢」といった感じで、今想い出しても夢見心地になります。
(登城行列に出場する中町2丁目舞台) (登城行列に出場する伊勢町2丁目舞台)
今回の歌舞伎公演では日程の都合もありこの「お練り」はないであろうと高をくくっていたのですが、中村勘三郎が「いやー松本のお練り、あれはよかったねー。またやりたいねー。」と、その一言で実施が決まったとか。公演の中日に開催されるため「お練り」とは呼ばず「登城行列」と呼称することになりましたが、当代一の役者さんに「よかったねー」と言われてはやらないわけにいきません。意気に感じて今回も2台の舞台とお囃子スクールの子供たちが出場することになりました。
7月4日が登城行列の当日。前夜から激しい雨で中止かと思われましたが、朝には雨も上がり、なんとか決行ということになりました。
(行列先頭を行く大幟 保存会で製作しました) (登城行列いよいよ出発)
今回の行列は本町通り松本郵便局前を出発し、本町・大名町を北上してまっすぐに松本城に向かいます。松深会の萬燈神輿が先行し、行列を先導するのは伊勢町2丁目と中町2丁目の舞台です。本町通りの真ん中に曳き据えられた舞台を見上げると、なんだか誇らしい気分になります。直前になって小糠雨も降り始めましたが、ここまで来たら雨が降ろうが槍が降ろうが行くしかありません。役者さんも人力車に乗りこんで無事に登城行列はスタートしました。
振り返ると中村勘三郎丈を先頭に7人の役者と串田和美芸術監督が人力車から左右に手を振ります。花吹雪が舞い、握手を求めて役者さんに駆け寄る人たち。また歌舞伎の夏がやってきたんだ、と感じました。
それにしても松本の人間がどうしてこんなに歌舞伎に熱狂するのか、不思議です。昔から地方歌舞伎が盛んで市民に造詣が深いという話も聞きませんし、ただ単に催し物好きというのでもないように思います。例えばテレビや映画のロケ隊が来ても、他所では野次馬が山と集まるのに、松本ではほとんど興味を示されずクルーたちが拍子抜けするのだとか。とりわけて文化レベルの高い町とも思えないのですが、この町の人には何か面白いものを嗅ぎ分ける嗅覚のようなものが備わっているような気がします。
(「松本城市民ふれあい座」控えテントでの一齣 役者さんていいですね)
登城行列は30分ほどで松本城に到着し、黒門前で舞台を止めると、天守閣前の特設ステージでの「市民ふれあい座」のセレモニーに出席しました。壇上では役者さんがそれぞれ『松本!最高!』などと景気の挨拶をし、今回の演目「佐倉義民伝」の中でも使われたラップのパフォーマンスがあり、続いてお囃子スクールの子供たちが役者さんたちに花束を渡しました。子供たち、中村座の看板俳優さんたちと触れ合ってどんな気分だったのでしょうか。きっと忘れられない夏の思い出となったことでしょう。
(役者さんとステージに立つスクールの子供たち) (花束贈呈の大役を終えて ほっ)
話は前後しますが、「松本の祭囃子伝承スクール」も今年で3年目。本年も23名が参加・受講しました。初年度が84名、昨年が35名、そして今年が23名と、何となく来年以降が思い遣られます。しかし2,30名という人数はスクールとしてはやり易く、登城行列の舞台上乗も振り分けに苦労しないで済みました。
(スクール風景 少数精鋭で一時間の授業中は休みもありません)
今年は6月6日から天神まつりの前まで都合11回スクールを開催し、曲目も「シャガシャリコ」「キリバヤシ」を加え6曲全部を浚いました。「シャガシャリコ」と「キリバヤシ」は神社の境内、御神前でのみ演奏する曲とされ格の高いお囃子ですが、チャンチャンは使わず笛も太鼓も独特のリズムの中で淡々と演奏する曲なので、子供には難しいと思います。しかし、笛の奏でる独特の哀調子と、一本一本念を込めるように打ちこむ太鼓の拍子はたしかに荘重、荘厳とも言える響きで、これは確かに神に捧げる囃子なのだと感じさせます。
7月25日、舞台出発前の神楽殿での発表会では子供たちによる太鼓演奏で6曲すべてを演奏しました。4曲は上手に打てましたが、シャガシャリコとキリバヤシはやはりリズムが難しそう。習ったばかりでもあり「ため」のとり方がまだまだ上手くいかないようです。
(神楽殿にて お囃子スクール発表会) (笛師 赤羽陸良先生)
お囃子の太鼓は小学校6年で卒業です。子供の中には「もっと習って、もっと上手くキリバヤシを打ちたい」と思っている子もいるのではないかと思いますが、どんなものなのでしょうか。演奏の機会がないと当然ながら技術は萎んでいきます。今回「キリバヤシ」まで伝習できたことで、逆に伝承ということの難しさを感じました。
そんな例祭から2日後の7月27日、上田市の海野町の方々が祭りお船修復の相談でみえました。海野町というのは東部町海野宿のことかと思いましたら、上田市内にある町会で、松本でいえば本町とか中町とかそういう町なのだそうです。戦国時代真田昌幸が上田に城下を築いた時、海野宿の町人を呼び寄せて住まわせたのが海野町の始まりだとか。伝統のある街です。
お見えになったのは海野町会役員の方お二人と上田市の商工会議所の専務理事さん、市会議員さん、上田市立博物館長さんの合計5名、錚々たるメンバーです。保存会からは石塚新副会長と修理プロジェクトの早田さん、大蔵さん、それと私が対応しました。
(本町3丁目舞台の前で 上田市の皆さんと石塚副会長〈中央〉)
上田には祇園祭があり、伝統的なお獅子なども出る立派なお祭りで、中でも海野町には江戸中期に製作された立派なお船があり、かつてはこの祇園祭に盛大な曳き回しも行われていたそうです。ところが近年はその曳き回しもなく、傷みもあって祭りの際にもひっそりと展示されているだけとのこと。しかし工芸的にも優れたものと思われるので、ぜひ修復して再び祭りの表舞台に引き出したい。(写真で拝見しましたが、とても立派なお船です)更に上田市や商工会としては展示公開して観光の目玉として、また商店街活性化の核としても期待を向けているようでした。
皆さんは深志舞台の修復方法もさることながら、松本深志舞台保存会という組織と組織運営に興味があるようで、石塚副会長から保存会の結成から今日までの過程と、JR東日本文化財団からの支援金により活動と修復の基金をもつことができたこと、松本市からも文化財指定を受け、その助成金により舞台修復が進み始めたことなどが語られました。
市や団体の援助を得て修復を進めるためには、文化財としての指定を受けることが最も有効でしょうと話しましたところ、同席の大蔵さんが
「深志舞台は松本市より『重要有形民俗文化財』という名称の指定を受けていますが、この『民俗文化財』とはどういうことか。それは舞台という有形の山車が文化財であるということではなくて、舞台を製作する技術、曳き回す祭りといった舞台に関わる人々の営み全体が一つの文化財という意味なのです。」と、注釈を加えました。
まったくそのとおり。古い舞台を修復して美しく仕上げることも重要ですが、その舞台を曳き回し子供たちがお囃子をして町の人々がここに集うこと、そこに町のアイデンティティーが生じ町と文化を成長させる心が育まれること、それこそが有形民俗文化であり舞台保存会の目指すところではないでしょうか。
(本町3丁目舞台 なんと舞台庫の中では幌を外してありました この鬼はめったに見られません)
(本町2丁目舞台庫 新たに足場が設置され舞台庫の中では幌も外されていました)
とはいえ現在の深志神社での舞台の祭り風景を見ていますと、言うは易くなかなかといった感じ。古老たちは昔の祭りの賑やかさ華やかさを口にしますが、舞台の運行も大きな負担で、現在の祭り行事を維持していくのが精いっぱいという町会が大半のようです。だからこその舞台保存会なのでしょう。
とりあえずは地道に舞台修復・研究に、お囃子スクールにと、今あるものの保存と伝承に微力を尽くしていけたらと思っております。