舞台保存会だより23 太田鶴斎について
太田鶴斎について
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現在本町2丁目の舞台が修復作業に入っております。主な部材は木曾に運ばれ、今月から来月に掛けて漆の作業が行われるようです。ぜひまた修復工房を訪ねて、その報告も入れたいと考えております。
ところでこの本町2丁目舞台は、棟梁は清水湧水(わくみ)、彫刻は太田南海の作とされています。但し太田南海が担当した彫刻は高欄下・支輪部の人物彫刻だけで、ほかの彫刻はすべて清水湧水の作と考えられます。するとこれは先だって改修を了えた中町2丁目舞台とも似た関係で、山口権之正と太田鶴斎の仕事を思わせます。二人の仕事についてはこれまでも何度か触れてきましたが、今回本町2丁目舞台を取り上げるにあたり、南海の父・太田鶴斎について、もう少し記してみたいと思います。
太田鶴斎は元治元年(1864)甲子の生まれ、大正13年(1924)甲子に丁度60歳で遷化しています。明治維新は1867年ですから物心ついたときは明治で、近代日本の夜明けとともに暦を一巡する生涯を過ごした人物といってよいのでしょう。
顔はこんな顔。おそらく晩年の写真ですが、どのように見えますでしょうか。犀利な知性と強勁な意志の持ち主と感じさせます。太田鶴斎といえば人形師ですが、写真で見る限り人形作りの「職人」といったイメージはまったく湧きません。文人・思想家とか、書家の様な雰囲気が漂います。曖昧さのない強い眼差しは、この人物の生活が堅固な思想により貫かれていたことを示しています。これは明治の人間の顔で、こういう顔の人間は現代の日本にはいません。
実際、太田鶴斎の活動は人形師の域を超え、彫刻や書画など造形芸術はもとより、和歌や俳句、狂歌にも秀でていたといいます。要するに家業は人形師の職人ながらマルチな才能を有する文人芸術家といったほうがよいのでしょう。
鶴斎という人は明治という時代の気風を受け、かなり近代的な精神の持ち主だったように思います。そのことを示すのが、自分の手がけた仕事の写真を多く残していることで、これは自分の仕事を作品として強く意識していた証ではないかと思われます。
(明治32年 菅公一千年御聖忌祭に際し本町4丁目の奉納として飾られた菅公の人形)
いったい明治時代といえば、写真を撮るのは写真師の仕事で、特別な記念写真が撮られるだけでしたから人物写真が殆どで、物自体を写した写真というものは余りありません。それを彼は自分の作った人形や彫刻を記録として幾つも写真に残しています。当時は写真撮影自体が高価でしたから、制作物を「作品」と意識しなければこうしたことはしなかったでしょう。制作物を作品として意識するということは近代の精神で、自己表現という観念がないと発生しません。
(中町2丁目舞台の高欄下彫刻 取り付け前に自宅アトリエで撮影された写真と思われる)
また、彼はリアリズム・写実主義というものを制作の基本においていたと考えられます。但し、彼の写実は単に形質的な写生ではありません。神武天皇像のときにも触れましたが(舞台保存会だより17)、鶴斎の人形は人体の細部まで忠実に再現して生人形のような精密さを示すだけでなく、ある場面の瞬間を切り取るようなポーズを再現しますので、見る人にはそのとき語られていた言葉さえ聞こえてくるようです。
彫刻についてはまさに写実主義そのもので、場面の中で人の姿勢やバランスに不自然なところはなく、まるで写真の情景を見るよう。時代考証・文献考証もたいへん正確で、中町2丁目舞台の歴史画彫刻にしても、「日本書紀」「日本後記」「太平記」など、出典の記述を忠実に表現しており、タイムマシンでその時代・その場面を訪れ、見てきたままを彫り上げたかのようです。太田鶴斎という人物は名前こそ旧弊ですが、きわめて近代的な科学的な精神の持ち主であったと想像されます。
(高欄下彫刻「中大兄皇子と藤原鎌足」) (彫刻に施された鶴斎の刻印)
こうしたことは、他の作家と比較してみると違いは歴然です。たとえば清水虎吉などは生年も近く同時代人といえますが、依然として二十四孝や仙人図、霊獣などを立川流の伝統に従って彫り続けています。その人物や動物は独特にデフォルメされ、伝統的図像学的ポ?ズで表現されます。そのことの良し悪しはありませんが、基本的にそれは江戸時代のものです。
当時、日本の木彫芸術は高村光雲や米原雲海、またヨーロッパの影響を受けた新派の芸術家により革新が図られていた時代であり、鶴斎の目は明らかにそちらの方向を向いていたといえるのでしょう。その精神はそのまま息子太田南海に引き継がれてゆきます。
太田鶴斎は絵も巧みで、若い頃は学んでその道に進みたかったようですが、家の事情で叶わなかったとか。職業画家にはなりませんでしたが、私には画き続けていたようです。
大正12年初夏の作とされる鶴斎の「東方朔」と題された日本画を見たことがあります。伝説の神仙・東方朔がまるで禅画の達磨大師のような表情で描かれていました。右手に杖、左掌に桃の実を持ち、振り返り気味に鋭い眼差しをこちらに向けています。極めて男性的な東方朔です。これは所謂伝統的な文人画ですが、鶴斎自身を思わせるものがあります。自画像と言うべきでしょう。
この絵が画かれた翌年、彼はこの世を去ります。
それから10年後、鶴斎の東方朔は息子・南海の彫刻の中で復活します。昭和9年に竣工した新しい本町2丁目舞台。その正面を飾るのは「東方朔」で、その老人の表情は明らかに鶴斎の東方朔と思われます。