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舞台保存会だより21 本町2丁目舞台 その網代輪覆いについて

本町2丁目舞台 その網代輪覆いについて

(掲載の写真はクリックすると拡大します)
夏の間お祭やら舞台の竣工やらで報告を後回しにしておりましたが、本町2丁目の舞台が解体され、7月13日に舞台修理審査委員会が開催され本格的な舞台修理に入っております。例によって松本建労会館の実習室にて分解された舞台の実見が行われ、引き続き舞台修理審査委員会が行われました。

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(松本建労会館実習室にて 解体された舞台パーツの検分)

本町2丁目舞台は、こう申しては何ですがとてもきれいで、あらためて修理するのが惜しくなる舞台です。外観もさることながら、シャシーにも傷みがなく、渡邉町会長が『わが町会の舞台曳きは舞台を廻す時、しっかり持ち上げて(ひきずる)音をさせないというのがモットーで…』と紹介していましたが、たしかにその気遣いが伺われます。解体修理して、これ以上よくなるのにはどうしたらいいんでしょうね?と訊きたくなりますが、剣呑剣呑、そういう余計なことを言ってはいけません。

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(審査委員会風景 車体・車軸はとてもしっかりしており 手を加える必要がないとのこと)

修理審査委員会の中で、この舞台と大町大黒町舞台の類似が話題となりました。知る人はよくご存知ですが、大町大黒町の舞台はもと松本本町2丁目の舞台で、つまり2丁目の先代の舞台ということになります。明治21年大黒町に当時500円で売却されました。なぜ売却されたのか、その理由については明治21年の極楽寺大火が原因で、本町2丁目も多くの家が焼け、置き場所がなくなったためとか、その復興基金を作るためだったとか、幾つか説がありますが、私はそれがすべてではないと考えています。
ともかく大町に売却された先代の舞台は、天保9年に大工原田幸三郎と彫刻師立川和四郎富昌によって制作された名舞台であり、舞台として初めて長野県宝に指定された、謂わば県下ナンバーワンの舞台です。つまり松本舞台の完成・理想形で、本町2丁目が昭和になって再び本格舞台を制作することになったとき、モデル・目標となりました。2丁目の関係者は視察もしているようですし、類似が生ずるのは当然とはいえます。

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(解体前の本町2丁目舞台) (本町2丁目舞台の輪覆い)

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(県宝の大町大黒町舞台) (大黒町舞台の輪覆い)

外見上よく目立つ類似点は、輪覆いの網代(あじろ)組みでしょう。
深志舞台の場合独立した輪覆いのある舞台は少なく、博労町、小池町、本町1丁目、東町2丁目とこの本町2丁目の5台だけです。大型の輪覆いがあると重厚で押出しがよく、見栄えがします。町の人はそこに優越感を抱くようで『うちの舞台はよそのと違って輪覆いのあるいいヤツだだいね…』と誇った調子で言います。ただし、メンテナンスには不利な飾りといえるでしょう。

舞台資料 075 舞台資料 012
(博労町舞台の輪覆い・牡丹) (小池町舞台の輪覆い・浪…修復前)

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(本町1丁目舞台の輪覆い・玄武) (東町2丁目舞台の輪覆い・浪に千鳥)

この輪覆い付きの深志舞台5台の中で、網代組みを用いているのは本町2丁目だけです。そしてそのモデルとなったのは大町大黒町舞台のそれであることは間違いないと思います。
一方、範囲を広げると網代組み輪覆いを採用した舞台は、この地域に他に数台あります。
まず、波田町下波田の舞台。この舞台については『保存会だより5』で詳しく採り上げました。そして、池田町一丁目(下町)の舞台。この舞台につきましても『保存会だより17』で一度簡単に触れていますが、これらの舞台には幾つか共通点があります。ひとつは共に江戸時代に制作された大型舞台であり、どれもが松本舞台を代表する最高水準の芸術的舞台であること。そしてもともと深志神社氏子町内にあった深志舞台で、明治10年以降に売却されたものであること。また大黒町と下波田の舞台に関しては大工が同じ、或いは親子で、これらの舞台は基本的に同じ技術によって製作されているということです。

池田町八幡宮の舞台 042 池田町八幡宮の舞台 008
(町内を曳かれる池田町1丁目舞台) (池田町1丁目舞台の網代組み輪覆い)

網代はシンプルで軽快でリズム感もあり、社寺建築の中でもよく似た建具が使われるためか親しみがあって好もしく感じられるのですが、意外に難しい細工なのだそうです。
以前下波田の舞台を感心して眺めていたとき、メジャーを持って舞台の各部を測りながら見回っていた六十絡みのおっさんが、輪覆いを指差して『これは難しいんだよなあ』と呟きました。聞くと大工さんだそうで『今じゃあ、こんな仕事をできる職人はいないよ』と教えてくれました。障子みたいに縦と横の木材を幾何学的に組み合わせただけの細工のどこが難しいのか素人の私にはまったく解りませんが、彼に言わせるとここは大工の腕の見せ所で、職人の技術を誇示したサインであるとのことでした。

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(波田町下波田の舞台・向かって左) (下波田舞台の網代組み輪覆い)

舞台は装飾の塊です。姿・彫刻・塗り・金具、幕や提灯の果てに至るまで綺羅を競って華やかに人目を惹かぬものはありません。輪覆いもおそらく実用よりは外見を意識したパーツで、派手な大盤彫刻が刻まれた覆いは、それだけで人目を惹き付けます。その中にあって網代の輪覆いは、派手やかさは一歩譲っても幾何学的な美しさと、知る人ぞ知る秘められた技を示してその道の玄人を唸らせたというのです。これはすなわち江戸の粋です。
かつて江戸の末から明治の初めにかけて、この3台の網代輪覆いの舞台は深志神社天神まつりに松本の街中を曳かれていました。本町2丁目(大町大黒町)伊勢町(下波田)本町4丁目(池田町1丁目)舞台です。時には街中ですれ違い、また深志神社境内で軒を連ね、綺羅を競ったことでしょう。そのことは確かにあった筈のことなのですが、想うだに夢のようで気が遠くなります。舞台とは江戸の文化なのだと痛感します。

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(本町2丁目舞台の網代風輪覆い・よく見ると網代には組まれていない)

さて、現在改修中の本町2丁目舞台、その輪覆いは一応網代風ですが、残念ながら正しい網代組みではないようです。網代には組まれていない、つまり玄人職人に唸らせる式のものではありません。外見だけは先代の舞台に近づけましたが技術までは模倣するにいたりませんでした。しかしこれは舞台の構造自体まったく違いますし、仕方のないことです。類似は形態のみにとどまり、現在の舞台は昭和の現代の舞台ということで、まったく別の視点からその価値を計るのがよいと、これが私の考えです。

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(解体され取り外された輪覆い、内側)