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舞台保存会だより18 飛騨の匠 山口権之正

飛騨の匠 山口権之正

(掲載の写真はクリックすると拡大します)
7月12日、中町2丁目舞台の竣工・入魂神事が深志神社神前にて無事挙行されました。梅雨の時季とて、町会の皆さんは天候が心配でしたが、穏やかな空の下での入魂式となりました。

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(入魂神事のため深志神社神前に曳かれる舞台)

この入魂式という行事、解体前の魂抜きの神事とセットで何度も行なってまいりましたが、神事を行う神職としては若干内心に忸怩たるものがあります。といいますのは魂抜きと謂い魂入れと言い、舞台の中にスピリッツの如きものを認め、それを抜き入れする宗教行事ということになりますが、いったい舞台のような人造の構築物に魂といったようなスピリッツの存在を認めてよいのかということは、神学上の問題です。日本人の心性には多分にアミニズム的な要素があり、万物に霊性を見ますから感覚的には極めて解り易い行事ですが、理論としてはどうなのでしょうか。たぶんキリスト教やイスラムの世界ではありえない宗教儀式なのではないかと思います。

以前イチローがメジャーリーグに挑戦したとき、メジャーの選手はグラブやスパイクなど自分の使う道具を大切にしない、といって批判していたのを聞きましたが、道具に分身を感じることは他の民族には稀なのでしょうか。身近にあり精魂を込めて使う物には霊魂がこもる、という感覚は日本人独特の宗教感性なのかもしれません。

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(中町2丁目舞台 入魂神事風景)

さて、中町2丁目舞台の竣工にあたり、解体時に課題にしておいた大工棟梁山口権之正について報告をしたいと思います。(保存会だより6
権之正は[ごんのかみ]と読みます。飛騨の匠の特に優れた棟梁に許された官名のようです。すけ(介・佐・亮・弼)でなく、かみ(正・守)なのが偉いところで、大名と同格です。日本では古代より職人・技術者は深い尊敬を受け、このような高い官位さえ名乗ることが許されました。

 

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(中町2丁目舞台 天井裏の墨書)

山口権之正は飛騨の工匠で、棟梁としては常に「飛騨之匠・山口権之正」と名乗りました。山口権蔵というのが戸籍上の名前だと思いますが、官名の呼称と「飛騨の匠」という名に強いプライドを持っていたようです。

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(山口権之正の署名と印影 「飛騨之匠」と「山口権之正」と読める)

飛騨という土地は古くから工匠を育てて出稼ぎをさせ、国を支えてきたそうで、いわゆるハイテク技能者輸出国でした。山口権之正が活躍した明治期にはほかにも多くの飛騨の匠が松本や安曇で働き、そのまま住みついた匠も多かったようです。因みにわれらが棟梁・山田工務店の山田棟梁もお祖父さんは飛騨から来た飛騨の匠だったとのこと。これからは山田ナントカノかみ、と呼んだほうがいいでしょうか。

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(棟梁の山田さん 「ナントカノかみ」などと呼んだら大声で笑い声が反ってきそうです)

さて山口権之正ですが、その仕事を3件ほど確認することができました。まずひとつは旧梓川村の下角にある恭検寺の鐘楼です。建造は明治24年(1891)。腰のくびれたスタイリッシュな姿で、見上げると大きな屋根を支える枡形と放射状の垂木が見事です。これは明治の始め廃寺となった波田の若澤寺(信濃日光と称された見事な寺だったそうです)の枡形を譲り受けて組み上げたものだそうで、山口権之正のオリジナルではないのですが、この独特な鐘楼の中に破綻なく再現させた技量はむしろ高く評価されるべきでしょう。フォルムと細部から軽快なリズムを感じさせる印象的な建築で、現在は松本市の指定文化財となっています。

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(恭検寺の鐘楼 バランスが良くとてもスタイリッシュです)

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(枡形 とても見事 楼に登るとすぐ近くから見られます)

しかし、山口権之正の名前をより印象付ける建築はやはり有明山神社の手水舎でしょう。有明山神社の建築というと何といってもまずあの裕明門が思い浮かびますが、この手水舎は参道からその裕明門に向かう右手前にあります。二つの建物はともに明治35年に建築されました。

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(有明山神社 裕明門と手水舎) (有明山神社 手水舎)

裕明門は日光東照宮の陽明門を模したといわれる八脚門で、製作者はかの清水虎吉です。軒下には脚部を取り巻くように、鉄拐・蝦蟇などの仙人図、二十四孝図など立川流の最も得意とした人物彫刻と、十二支図・唐獅子・竜など霊獣彫刻が刻まれています。スケールといい風格といい裕明門こそ清水虎吉の最高傑作とされますが、そのとおりでしょう。

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(裕明門向拝部とその彫刻)

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(裕明門の仙人彫刻 鉄拐と蝦蟇仙人)

一方、山口権之正作の手水舎はスケールこそ裕明門には遠く及びませんが、その造り・彫刻の見事さは裕明門にまったく引けを取りません。四脚が踏ん張ったフォルムは美しくシンプルですが、近寄ると軒下の欄間部分には鳳凰・龍・虎・獅子・鷹が彫られ、木鼻は唐獅子、下魚・破風部分にもふんだんに見事な彫刻が刻まれていて、圧倒されます。あらためて手水を遣うことを思い出し、手と口を清めてふと見上げると、その天井には大きな一枚板に一面龍が彫り込まれ、参拝者を見下ろしています。

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(手水舎の彫刻)

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(手水舎 天井彫刻の龍)

それにしても、どうしてこんなゴージャスな手水舎が出来上がったのでしょうか。そこには山口権之正と清水虎吉という二人の製作者の意地の張り合いがあったものと思われます。それにつきましては長くなりましたので、次回に稿を改めたいと思います。
終りにもうひとつ。恭検寺鐘楼の解説によると山口権之正は『松本市清水に在住した飛騨の匠…』と紹介されています。どうも山口権之正は清水に住んでいたようです。清水虎吉も清水に工房を構えていました。善昌寺の門前と伝わっています。山田棟梁の作業場も清水。どうも明治時代の清水は各地から腕のいい大工・職人の集うアーティザム・バレーであった感があります。
朝夕となく念来寺の鐘楼の向こうからは、競うように鋸や鎚の音が響いていたのでしょうか。