舞台保存会だより5 伊勢町舞台と原田蒼渓の彫刻について
伊勢町舞台と原田蒼渓の彫刻について
前回に続いて伊勢町2丁目舞台と原田蒼渓の彫刻について記したいと思います。
写真は深志神社境内にある博労町の献牛です。作者は謂うまでもなく原田蒼渓。明治32年、菅公御正忌一千年祭にあたり奉納されました。
実物大と感じさせるこの大きな牛は、彫刻というより木塊とでも表現すべき強い存在感のあるオブジェで、100年以上に亘り神前に座り続け境内を見守ってきた牛の顔には火傷の痕と長年の風雨のためか木目が削れて深いしわが刻まれ、そこに深い精神性さえ感じさせます。本物の芸術とは作者の創造は半ばで、自然と時間の力により完成するのだということを教えているようです。
それにしてもこの牛小屋はもう少し見易いといいのですが。
(深志神社境内、博労町の牛小屋、奥に見えるのは伊勢町1町目の三峰神社)
舞台に関しますと現在の伊勢町2丁目舞台は明治25?35年ごろの造営とされていますが、その前の所謂先代の舞台のことが分かってまいりました。現在波田町・下波田地区の舞台がそれで、明治10年に松本伊勢町から購入したとされています(当時伊勢町は一町)。購入経費が167円70銭とか。控え記録に金額まで伝わっていますので間違いのないことと思われます。
伊勢町が売却した理由は、明治初年に松本の道路が改修されたため道路を傷める大型舞台の通行が禁止されたためとか。はたしてそのようなことがあったのでしょうか。ただ明治期には伊勢町だけでなくいくつかの大型深志舞台が郡部に売却されており、その理由は研究の必要があります。
さて、その下波田の舞台ですが確かに道路を傷めそうな見事な舞台で、間違いなく松本平を代表する山車のひとつといえます。慶応年間(1865?67)に大工・原田幸三郎により製作されたと伝えられています。前回も触れた大町大黒町舞台の作者、原田幸三郎の名前が出てきました。そして彫師は原田倖三(蒼渓)と伝えられ、この舞台は原田親子の手になる舞台である可能性があります。
舞台自体は屋根が唐破風型に改装されていますが、車高が高く(6m近い)バランスや造りが大黒町舞台によく似ています。伝承どおり幸三郎が大工であったなら、当時まだ本町2丁目にあったあの大黒町舞台を念頭に、それに負けない見事な舞台をと力を尽くしたのではないでしょうか。
そして彫刻ですが、これまた大黒町舞台に劣らぬ見事な彫が随所に施されています。主なものでは下魚に梅福・盧敖仙人、持送りに風神・雷神、高欄下・支輪部に七福神、一階手摺り部分には唐子遊び図。中でも唐子遊びの彫刻はまことに入神の出来栄えというべく、駆け回って遊ぶ子供らはまるで画面から飛び出してきそうな躍動感に溢れています。また鶏を飼う唐子の図では、子供の脇の伏籠の中にも見事に1羽の鶏が刻まれています。花に手を伸ばしたり、琴を提げてくる少女の姿も実に愛らしい。
これらの彫刻が原田蒼渓の作であるとすると、その作風に関して認識が改まることになるのかもしれません。ただ今のところ作者については伝承とされており確かではありません。詳しい研究が俟たれます。
私個人としてはこの舞台がもと伊勢町の舞台であるのならば、作者は地元伊勢町の名工、原田幸三郎・蒼渓親子であると信じたいと思っております。
終わりに舞台修理について連絡事項があります。
来る12月2日、魂抜き清祓式を行っていよいよ『中町二丁目舞台』が改修に入ります。10時より深志神社拝殿前にて執り行われますので興味のある方はお越しください。