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舞台保存会だより60 唐子群遊・宮坂昌敬の唐子図

唐子群遊・宮坂昌敬の唐子図
春の高山祭に曳かれる高山上一之町下組の屋台「麒麟臺(キリンタイ)」は、数ある屋台の中でも特に華やかで、絢爛豪華という言葉がそのまま当てはまる見事な山車です。錺金具や細密な塗りをふんだんに施したその姿は、遠くから眺めるだけでも堪能しますが、下段の間・四周に施された谷口与鹿の彫刻「唐子群遊」の図は、高山屋台を代表する彫刻として殊に有名です。前々回に「伏籠の禽」図で紹介したあの唐子図です。弘化3年(1845)麒麟臺の改修に際し、この彫刻を入れたとされます。与鹿23歳でしょうか。

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(高山市・上一之町下組の屋台「麒麟臺」)

谷口与鹿(文政5・1822~元治1・1864)という人は飛騨匠の代表的棟梁家・谷口家の出身で、その父延儔(ノブトモ)は谷口権守を称しました。谷口家は屋台の建築が得意で、多くの屋台を建造しています。中でも与鹿は彫刻に志が篤く、高山屋台に数多くの名彫刻を残しました。高山祭りと共にその名は高く、飛騨彫刻を代表する名匠と言えます。

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(麒麟臺の彫刻「唐子群遊」)

その唐子群遊図ですが、初めて見た時、これも唐子図なのか、と思わず眼を瞠りました。

なんと現代的にかわいい唐子でしょう。キュートという言葉がぴったりです。眼も円らで、まるで西洋人形のよう。しかも唐子が連れている犬は、これは明らかに洋犬です。唐子群遊というより南蛮稚児群遊といった感じ。或いは谷口与鹿はどこかで見た西洋絵画(例えばクピドが出てくるような)を参考にこの唐子たちをデザインしたのではないでしょうか。

これが後期とはいえ江戸時代の作とは驚きですが、鎖国などといっても面白い情報はいろいろ入っていたようですし、西洋の絵画表現も十分視野に入っていたことでしょう。

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(麒麟臺の唐子 アンニュイな表情と可憐な姿態がとても魅力的)

尤も地元高山には、与鹿は唐子群遊図の制作にあたり、城山に集う子供たちとともに戯れ遊びつつ、その仕種を観察して唐子図の下絵を描いた、との伝承があるそうです。いい話ですが、図のような天使の如き子供が当時の高山に群れをなしていたとも思えませんから、姿態はともかく唐子自体は与鹿の創作でしょう。

唐子群遊図は、決して伝統のみに泥まず、本当に可愛いと思える唐子を表現しようとした与鹿の感性の発揚なのだろうと思います。

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(麒麟臺と唐子群遊図 彫刻自体の厚みはあまりありません)

半田市下半田にその名も「唐子車」という山車があります。名前の由来は壇箱の彫刻「唐子遊び」にあります。半田の山車はしばしばその中心的な彫刻から愛称を付けられることが多く、「唐子車」はその典型でしょう。彫刻の作者は宮坂昌敬。山車自体は天保8年(1837)の建造とされますから、彫刻もこの時の作でしょう。

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(下半田北組「唐子車」一番手前 はんだ山車まつりにて)

宮坂常蔵・立川昌敬(文化2・1805~文久3・1863)は、立川家の人ではありませんが非常に優秀な大工で、見込まれて諏訪立川流・初代和四郎富棟の娘婿となり、二代目和四郎富昌の右腕として活躍しました。立川を許され、棟梁として立川昌敬を名乗ります。

諏訪の生まれですが県内での仕事は僅かで、主に中京・東海地方で多くの仕事を残しました。社寺建築請負総合建設業・立川組東海支社長といったところでしょうか。

優れた棟梁であると共に彫刻はまさに名人中の名人で、その刀は至芸という他なく、名人揃いの立川の中でも際立ったテクニシャンです。世に立川和四郎(富昌)の作といわれる社寺彫刻も、多くは昌敬の手が入っていると言われています。

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(唐子車の壇箱彫刻「唐子遊び」と脇障子の「手長・足長」)

先だっての「はんだ山車まつり」で初めて下半田北組の「唐子車」を実見することができました。この山車では同じく昌敬刻になる脇障子の「手長・足長図」も有名です。しかし、あやうくそれすら見落としそうになるほど壇箱の唐子遊び図は素晴らしく、印象的でした。

まるで力神のように力強く壇箱上部を支える左右の唐子。中央で稚児を抱きあやす唐子。仔犬や亀を手に微笑む唐子たち。それぞれが実に堂々としていて強い存在感があります。

堂々とした唐子などというのは形容として妙ですが、他に上手い言い様もありません。譬えるならば顔真卿の楷書のような、とでも申しましょうか。これも拙い比喩ですが、この作以上に格調高く立派な唐子の図を私は知りません。

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(唐子車の唐子たち)

うまく言えませんが、こういう造形は単に優れた作家であればできる、というものではないと思います。例えば文化・文政というような、ひとつの文化の頂点に際会した芸術家が稀になしうる仕事ではないでしょうか。時代の息吹と優れた造形作家の創造力が交わって、初めて誕生した傑作と感じます。

もう一点、宮坂昌敬の唐子図を紹介します。

これは常滑市大谷地区の祭礼に曳かれる浜条・蓬莱車と呼ばれる山車です。天保13年(1842)に建造され、主要な彫刻は昌敬が入れています。その壇箱彫刻は「唐子と犬」。

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(大谷浜条・蓬莱車(奥の方)と、その壇箱彫刻「唐子と犬」)

今まで見てきた唐子図の中で、私はこの犬と戯れる唐子たちが一番好きかも知れません。

6人のこどもがいます。4人はそれぞれ自分の犬を連れ、抱き上げたりしています。どの子も犬が可愛くて、犬と遊ぶのが楽しくて仕方ありません。場面右手の子は後ろ手に小鳥を隠して、何か話しかけている様子。

「僕も可愛いの持ってるんだけど、換っこしない?」

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(蓬莱車の唐子たち 「この犬はオラんだよ!」)

采配を持って囃す子供もいますから、これはやはり唐子図なのでしょうが、子供たちの少し曲がった様な顔付きを見ますと、モデルはその辺のガキどもに違いないでしょう。町外れ、村の辻で無心に遊ぶ子供の風景です。

唐子車の唐子に比べると肩の力が抜け、本当にのびのびとした子供たちが画かれています。これも譬えるならば、懐素か、良寛の草書を観るようです。

下半田・唐子車の堂々とした唐子、浜条・蓬莱車の天真爛漫な唐子たち。宮坂常蔵昌敬という人は、本当に天才的な表現者だったのだな、とあらためて感心します。

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(蓬莱車の唐子たち)

社寺彫刻を始め絵画や陶芸の中でも数多く描かれる「唐子遊び」「唐子群遊」は、平和と衣食足りた安寧な社会の象徴であると言われています。こどもが遊ぶということは、当たり前のようにも思えますが、戦さや戦争のある社会ではできないことです。また、常に飢餓に晒され、明日の食事もおぼつかない暮らし、社会秩序が乱れ盗賊や人さらいが横行する社会でも子供は遊ぶことはできません。こどもが子供だけで無心に遊ぶことのできる社会というのは、基本的に理想社会であるということができます。

江戸時代は元和偃武以来250年に亘って、戦さも対外戦争もない平和な時代が続きました。飢饉や一揆はありましたが全国規模の動乱や荒廃に至ることはなく、これほどの長期に亘り秩序が保たれたということは日本史上例がありません。天下泰平という言葉が使用しうるのはこの時代だけでしょう。

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(常滑市大谷地区の祭礼風景 八幡社前)

江戸時代を理想社会と呼ぶのには抵抗がありますが、ほとんど自給自足の閉鎖的経済社会でありながら独自の文化を築き上げ、日本という国のアイデンティティーを確立させたのはこの時代で、それも社会の安定が基礎になっていたからでしょう。

宮坂昌敬の唐子図は、この太平の世を映していると言ってよいと思います。

一方で当時は衛生医学の未発達から子供の死亡率は極めて高く、5歳以上の生存率はたしか30パーセント未満でした。せいぜい3人に一人しか育たない。子供の無事な生長は、現代人には想像できない切実な願いだったと思われます。山車の正面を飾る唐子の図には、そんな当時の人々の、祈りに近い強い思いが込められているのではないでしょうか。

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(犬を抱いて笑う唐子 犬は安産と子どもの成長の守り神です)

その後も唐子図自体は定番として画かれ続けますが、昌敬の唐子図に見えるような息吹を感じさせる唐子には出合えません。

時代は間もなく動乱の世となり、日本は幕末安政からおよそ一世紀に亘り、テロと内乱と戦争に明け暮れる狂奔の季節となります。まるで250年の太平に復讐するかのように。

そうした時代に画かれる唐子は、残念ながら様式的にしかならないのだろうと思います。