舞台保存会だより66 本町4丁目舞台の竣工
本町4丁目舞台の竣工
7月24日25日、平成25年度の深志神社例大祭・天神まつりが斎行され、舞台行事も行われました。行われましたが今年のお祭りは雨模様で、特に24日は朝からの雨で、予定通りに舞台を表に出さない町会もありましたし、出してもみな幌で全体を覆ったモンスター状態で、少し残念な出場風景となりました。
雨は夕方になってもやみません。もしかすると出てこない町会もあるのではないかとヒヤヒヤしましたが、18時までにすべての舞台が境内に並びました。全16台。久々の勢ぞろいです。やがて宵祭りの神事が行われる頃には雨もあがり、多くの舞台は幌も上げて、いつもの天神まつりの賑わいになりました。
(2丁目3丁目も続く 今年は本町番なので伊勢町の舞台は拝殿近くの配置です)
翌25日は、予報こそ雨でしたが降られることなく、無事舞台行事が執行されました。
出発前、「祭囃子伝承スクール」の子供たちによるお囃子の演奏も、いつもどおりです。今年は参加者が42名にのぼり、会場の神楽殿はハッピを着た子供たちでいっぱいになりした。笛師さんの笛に合わせ、舞台を背景に太鼓とチャンチャンの音が賑やかに響き渡ります。天神まつり恒例の風景となりました。来年以降もこうありたいものです。
なお、来年の天神まつりは、『深志神社天満宮御鎮座400年祭』と併せて斎行し、期日は7月25日(金)26日(土)27日(日)の三日間となります。三日とも舞台は出場し、特に27日には神輿と舞台が連なった大行列を計画していますので、どうかご期待ください。
(平成14年 菅公御正忌1100年大祭 市街地を連なって行く舞台)
さて、天神まつりに先立つ一ㇳ月前、6月27日に本町4丁目舞台の修復竣工入魂式が深志神社神前にて行われました。宛もこの日のために設えたような新しい石畳の上に、改修成った4丁目舞台が曳き据えられ、これも改修された人形「神功皇后」が舞台の上から見まもる中、神事が執行。舞台は無事に入魂・竣工しました。
季節がら天候が心配されました。昨年の本町5丁目、中町3丁目の竣工式もそうでしたが、前日まで天気予報は傘マークがとれません。どこの舞台であれ、竣工式に雨は歓迎しませんが、4丁目舞台は2階屋根というものがありませんから、降ればいきなり人形や櫓の紅白幕がズブ濡れになってしまします。小屋根もありませんから一階周りの紫幕などの飾りも被害を免れません。雨だけは願い下げです。
保存会副会長でもある町会長の加納さんからは、
「降ったら舞台庫の中で、お祓いしてね。」と、頼まれていました。
「大丈夫ですよ。きっと晴れます。…晴れないまでも降りはしませんよ。」
気休めもありますが、私はきっと『降らない。』と思いました。自分で言うのもなんですが、野外神事に関するかぎり私は晴れ男だからです。
顧みれば、平成15年の本町3丁目舞台から始まって、昨年の中町3丁目まで、私は12回の竣工入魂式を執り行ってきました。そのうちで降雨のため舞台を神前に曳き出せなかったのは1回のみ。11回は快晴といかぬまでも雨に遭わずに竣工式をし遂げています。
降雨率10%未満、勝率にすれば91,66%。白鵬の幕内勝率が8割3分8厘4毛ですから、我ながら立派な数字だと思います。
(竣工入魂式を前に 素晴らしい青空が広がりました)
(これで13戦12勝1敗 勝率は9割2分3厘に上がりました なお魂抜式は12戦全勝です)
今回もそうですが、舞台の入魂式は天神まつりに間に合うようにといって、6月ぐらいに行われることが多かった。梅雨の時季でどこの町会も天気を気にするのですが、どうしてもこの時期になってしまします。雨季にこの勝率は、大したものだと思いませんか?
ちなみに1回だけの敗戦は平成21年5月の伊勢町2丁目舞台の竣工式でした。この時ばかりは朝から大雨でどうにもならなかった。狭い舞台庫の中で、舞台と人に押し付けられるようにして入魂神事をしたことを覚えています。(舞台保存会だより16)
当時の伊勢町2丁目の役員は、町会長が深志神社の氏子総代会長でもある中村欽哉さん、修理委員長は舞台保存会会長の的場文造さんでした。雨を降らせたのはどちらの威力か判りませんが、このような大物二人を相手にしての敗戦は、致し方ないところでしょう。
そんなわけで予想どおり6月27日は見事に晴れました。朝方まで重く広がっていた梅雨雲は徐々に霽れ、神事の前には青空が広がりました。夏の日差しが降り注ぎ、真新しい白い石畳の上に濃い影が落ちます。見上げると青空をバックに、神功皇后人形が深い眼差しでこちらを見下ろしていました。
いつものことながら改修を終えたばかりの舞台は美しく見事です。漆の光沢が素晴らしく、近くで写真を撮ると鏡のように磨かれた板面に自分の姿が映ってしまいます。4丁目の舞台は塗装にアクセントがあり、側板には赤の縁取り線が入り、6本の縦柱は角に面取りをして金筋を入れています。濃い褐色に仕上がった春慶塗の中から金のストライプがくっきりと立ち上がり、実に印象鮮やか。4丁目舞台はこんなに良かったでしょうか?
そういえば改修前、舞台下部のあちこちを締めていたボルトが見当たりません。臍(ホゾ)の頭がのぞいているだけです。山田棟梁、宮大工の誇りにかけて補強ボルトを駆除した模様です。昨年、舞台修理委員会の折「大丈夫。うまくやるで。」と腕組みしながら頷いていた棟梁の顔が思い浮かびました。(舞台保存会だより49)
(修復前の舞台 下部が開かないようにあちこちボルトで止めてある)
台輪構造のないマッチ箱のような4丁目舞台にとって、補強金具なしで組み上げ、曳き回すということはちょっと無謀な気もしますが、棟梁には自信があったのでしょう。艶やかな漆塗りの裡に、確かな職人技が深い光を放っているように感じられ、あらためてその美に感銘しました。
ところで本町4丁目舞台といえば神功皇后人形。その人形もこのたび修復を施されました。
高砂通りの村山人形店が請負で、実際に修復を行ったのはさいたま市岩槻区の(株)川崎人形という人形工房です。川越まつりが最も代表的ですが、北関東には大型人形を載せた山車が多く、川崎人形はそうした山車人形の制作や修復を、ほぼ一手に引き受けているようです。需要のあるところ技術あり。松本では滅びてしまった人形師が、かの地では衰えることなく人形作りの技を伝えています。昨年の、本町5丁目の新しい柿本人麻呂人形も、川崎人形の作品だそうです。
(模型のパーツを使って修復方法を説明する川崎人形の川崎社長と会長)
川崎人形では池田工業高校の小野和英先生の指導もあり、古い人形の生地を傷めぬよう慎重な修復を行ったそうです。実際、舞台自体の修復が終えたのは既に昨年の秋でしたが、人形が出来上がってきたのは今年の5月末でした。
人形の出来栄えは見ての通り。これまでに変らず強い存在感があります。具足の胴に金箔が施されて力強さが増しました。甲冑以外の衣装は新調しましたが、作りも素材感も以前と変わりません。髪の束ねが上に上がったため、顔の印象は前よりシャープになりました。女性らしさはスポイルされましたが、武人ですからこの方が本来でしょう。いずれにせよ見事な人形です。
さて今回の修復に当たり、この神功皇后人形について大きな発見がありました。それは人形の内からではなく外側から顕れました。人形の収納箱が出てきて、制作年が判明したのです。
舞台修復が行われると、しばしば当該町会ではこの機会に舞台庫の整理、掃除をします。要らないものを捨て、庫内をすっきりさせるのです。
(4丁目舞台庫の中 出来上がったばかりの舞台と 奥に人形箱が見える)
昨年の神道まつりの終わった直後、10月初めだったと思います。町の皆さんと舞台庫掃除を終えた加納さんが、帰り際に社務所に寄ってくれました。
「いやぁ、片付けてたら2階の奥から大きな木箱が出てきてさ。ゴミで処分しようと思ったけど板に字が書いてあるだよ。雑巾で拭いてみたら、あれは人形の箱だわ。…年号みたいな字も書いたるよ。」
早速私はデジカメを持って4丁目の舞台庫へ行き、扉を開けました。中には出来上がったばかりの、幕も提灯もついていないスケルトン状態の舞台があります。そして舞台庫奥の棚の上にその木箱はありました。大きな四角い蒸篭(セイロ)のような、4段積みの中空の重ね箱です。
近寄ってみると、その側面には一番上の箱に墨書で「本町」と横書きされ、下3段に「四丁目」と縦書きされています。横書きの「本」と「町」の間に「氣長足姫尊」と縦書きがありました。
『氣長足姫尊(オキナガタラシヒメノミコト)』日本書紀表記の神功皇后名です。これが本町4丁目の舞台人形・神功皇后像の収納箱であることに間違いありません。
隣の面を見るとやはり墨で「人形箱」と大書され、その脇に「寛政二 庚戌 六月」と墨書がされていました。
『寛政二』
その文字を見た瞬間、私は思わず電気に撃たれたように感じ、震えました。
「寛政2年」これは深志舞台にとって、とんでもない年号です…。
いいところですが、長くなりそうなので、続きは次回とさせていただきます。