舞台保存会だより92 挙母祭りに行ってきました
挙母祭りに行ってきました
去る10月18日、恒例の舞台保存会「山車まつり視察ツアー」で愛知県豊田市に行ってまいりました。「挙母祭り」の視察研修です。会員ほか16名の参加になりました。
挙母は「コロモ」と訓みます。古くからの地名で、古代には「衣」と表記しました。衣(コロモ)ならばまったく訓み易かったと思うのですが、どうして挙母という表記になったのか?(実はキョロモとか?)何か説明を聞いたようにも思いますが、忘れました。
いずれにせよ現在豊田市の中心であるその地は、昭和34年まで挙母市であり、江戸時代は挙母藩の城下町でした。そして、挙母祭りは挙母神社の例祭ということになります。
さて、豊田市(挙母)は中部環状自動車道の沿線ですから、甚だ便がよく、行き易いのは結構なのですが、山車まつりだけ見るのには些か時間に余裕があります。そこで午前中は手前の足助町を観光することにしました。
足助(アスケ)も現在は豊田市の一部です。古い町で多くの町屋が残り、その町並みは国の重伝建(重要伝統的建造物群保存地区)に指定され、江戸から明治大正の古き佳き日本の面影を色濃く留めています。そして、単に古いだけでなく足助は信州にとって大切な町でした。
かつて信州への物流は「中馬(チュウマ)」と呼ばれる運送によって支えられていました。現代ならば長距離トラックだと思います。江戸時代の物流は海運・水運が主で、重い荷物、大きな荷物はほとんど船で運びました。しかし、信州や甲州など内陸の山国は水運が使いにくく、馬や牛を使った陸送が主でした。そこで活躍したのが中馬です。
中馬は海浜の都市と信州の各都市を直接結んで運送を行いました。これを「付通し」とか「通し馬」と呼びます。江戸時代の陸送は本来、宿駅ごとの往復が原則で、宿場ごとに荷駄を付け替え、口銭を支払わなくてはなりません。でもそんなことをしていたら長距離の信州運送はマショクに合いませんので、荷の発送地から目的地まで一駄で通していく中馬が重宝されました。中馬は多くの宿場を通過するだけで口銭も落としませんから、宿場からは嫌われ軋轢も多かったようです。中馬禁止の訴えまで起こされました。しかし、内陸地にとっては必要なことでしたから、幕府も容認したようです。
足助は中京と信州をつなぐ、通称・中馬街道(伊那街道、飯田街道)の重要な中継地で、むしろ中馬によって栄えた町でした。鉄道が発達するまで、南信州への運送を支えました。信州人にとっては歴史的に重要な町と言えます。
足助は、じっさい非常に魅力的な町で、すぐ隣に広がる景勝地「香嵐渓」とともに、旅情を満足させることのできる観光地です。重伝建の街並みも徒にことごとしくなく、生活感があり周囲の自然ともよくマッチしていて心が和みます。挙母祭りが目的でしたから今回は多くの時間が取れませんでしたが、あらためてゆっくりと歩いてみたい町です。
さて、足助で昼食の後、いよいよ挙母に向かいました。挙母は矢作川の畔に発達した城下町で、三河の一つの中心地、要衝と言えるのでしょう。近くには徳川家発祥の地、松平郷もあります。なんとなくですが、この辺の人には『俺たちが天下様の御家人だ。』という意識が残っているような気がします。
豊田・松平インターから市内に向かうと、矢作川の両岸には豊田スタジアムや、豊田スカイホールといった巨大なスポーツ施設が建ち、さすがは「世界のトヨタ」の城下町だと感心します。その最先端の町で、極めてプリミティブな(人間動力の)山車の曳き回しが行われるのですが、これもひとつ日本的な風景と言えるのでしょう。
一行は松本市のバスをスカイホールの駐車場に駐めると、さっそく挙母神社に向かいました。比較的近く15分ほどです。神社に着くと、鳥居の前に会所を構えている東町の詰め所に寄り、挨拶をして粗酒を差し上げました。
実は今年の夏、天神祭りにこの挙母東町の一行が来訪されました。松本の舞台を見たいとわざわざ寄ってくれたのです。その際、代表者の岩月さんとあいさつを交わし、このたびの挙母行きに際してもスカイホール駐車場の手配をお願いしました。お蔭で安心して駐車し、スムーズな移動ができたわけです。
挨拶を済ませて鳥居をくぐると、すでに相当な人出で境内は賑わっていました。山車は鳥居から本殿に向けて参道中央に縦列に整列します。境内樹林が山車の上に木洩れ陽を落とし、実にさわやかな光景です。朝10時に境内への曳き込みがあり、午後4時の曳き出しまでここに置かれるのですが、周囲には常に人が回遊していて縁日の賑わい。境内の縁を取り囲むように張られた高見世も忙しそうです。深志神社の例祭日とはえらい違いです。
境内に整列した挙母の山車は8台、旧本町、中町、旧東町、神明町など、伝統的な町名を冠しています。保存会の参加者には親しみ易く、自分の町と同じ町名の山車を探しては、目を細めていました。
挙母の山車は、三河型とも称され、やや特殊な形態をしています。二階建てで三方に幕を廻らせた、尾張・知多の山車に近い姿ですが、いくつか違いがあります。まず、車輪が外輪で台輪の外に付くこと。舵は後ろ舵で、台輪部分と一体になった舵棒が弧を描くように後方に伸びています。また霞幕という名の暖簾のような幕が一階の向拝の前に竿で吊られており、どういう意味合いのものか解りませんが、山車の運航の際には竿を操って進行方向を示し、方向指示器のように機能させるようでした。
挙母の山車は全体的にはややずんぐりした印象ですが、機動性に優れ、走りながら旋回する姿も安定感があり、さすがはトヨタ車だと感心します。
深志舞台との関連で興味深いのは、後ろ舵であることです。名古屋や知多の山車は、長い舵棒を山車の左右に括りつける前後舵なのですが、挙母の山車は後ろのみ。しかも台輪と一体になっています。深志舞台をはじめ信州の山車は多くが後ろ舵ですから、両者には何か関係があるのではないかと推量します。
但し、その舵は交差点でいったん止まってエッチラヨッと持ち上げるのではなく、走りながら舵棒を横に押してぐんぐん曲がってゆく曲げ方。祭りの最大の見せ場である境内での曳き出しでは、本部席前の大銀杏の周りを素晴らしいスピードでUターンしてゆきます。トヨタ車であればコーナリング性能も優れていなくてはいけません。
また、境内に置かれた山車たちは面白いことに神社拝殿に向かって縦に並びます。縦列駐車です。すると1号車から8号車という具合に順番が付くわけですが、この順番は毎年一つずつ替わってゆきます。先頭に立つ山車は「華車(ハナグルマ)」と呼ばれ、その年の祭りの顔になるようです。今年の華車は「旧本町」でした。
旧本町の山車はかなり古い車で、立川の彫刻を多く搭載していることで有名です。それも立川富昌から、富重、富種、富淳まで、三代4名の棟梁がその彫刻に携わっているという珍しい山車です。県外の山車には、車両自体の完成は或るとき成されても、彫刻や飾り物はその後随時加えられてゆくという製作がしばしばあり、この挙母本町の山車も、文政から明治にかけて彫刻が整いました。本町という名に恥じない立派な山車です。
(旧本町山車の彫刻 この辺は立川富種、富淳の作品かと思われる)
中でも富昌の作とされる脇障子の手長足長は、立川が初めて山車に彫った彫刻とされ(文政2年・1819)歴史的にも貴重な作品です。手長足長は立川富昌が彫刻として発案し、得意とした彫刻ですが、社寺も含めてこの作品が最初の手長足長ということで、その意味でも記念碑的な山車であり、山車彫刻と言えます。但し、脇障子は大変見にくいところにあるので、手長足長の彫刻は外部からは殆ど見ることができません。とても残念です。
人波を掻き分けながらそれぞれの山車を見歩いていると、境内の案内放送で、我々を呼んでいるアナウンスが流れました。
『長野県からお越しの松本深志舞台保存会のご一行様、本部席隣りの東組詰め所までお越しください。』
何事であろうかと訪ねてみると、会所に立ち寄って挨拶したのが伝わったのでしょう、テント小屋の休憩所が用意されており、招待されご接待を受けました。美しい女性もいてビールや飲み物を勧めてくれます。松本から下げてきた粗酒が効いたのでしょうか。
(東組の最高責任者・岩月基支さん) (休息所で接待を受ける保存会員)
暫くして東組最高責任者の岩月さんも忙しい中お越しくださり、挨拶されます。紋付き袴で、とても立派です。どこに行っても立派な山車まつりをするところは、身支度がしっかりしています。間もなく山車の曳き出し時間。岩月さんは倉皇と立ち去って行きました。
東組詰め所のすぐ隣は、放送案内所を兼ねた祭典本部席です。ここは少し高台で、山車の曳き出しが実によく見えます。東組の若い衆が口をきいてくれて、我々は本部席で見てもよいとのこと。山車が御神木の前をUターンして駆け抜けて行く、まさに祭の華の場面を、絶好の位置から観覧することができました。
挙母の山車たちは、例によって膨大な紙吹雪を噴出しながら走ります。曳き手は大人から子供まで、若い女性もたくさんいます。舵は当然屈強な若者が付きますが、屋根の上にも人の乗った大きな山車を、停止させずにぐんぐんUターンさせてゆくというのは大変な操車技術だと思います。歓声とどよめきのなか山車は走り、若者らが旗を振り、紙吹雪を散らして駆け抜けます。走り去る山車の後ろ姿は紙吹雪に霞んでしばらく見えません。
次々と山車が走り去り、それを追って雲集していた人々が街へ出て行きました。本部席から下ると、境内は分厚い紙吹雪に埋もれています。恐る恐る足を踏み入れると、ほわりと柔らかく、子供のころ冬の朝、庭に積もった初雪の上に足跡を付けて歩いた時の心持ちを思い出しました。