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舞台保存会だより106 大藏治氏を悼む

大藏治氏を悼む

去る2月24日、新聞紙上で大藏治氏の訃報に接し(2月23日逝去)愕然としました。69歳とあります。病とはいえあまりにも若すぎる死で、落胆となんとも言えない遣る瀬なさを感じました。心より哀悼の意を表します。

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(昨年6月 舞台修理プロジェクト解散式で感謝状を受ける大藏さん)

大藏さんが数年前から癌に冒され、闘病生活を送っていることは知っていました。しかし近年は医療の発達により、癌も必ずしも死に至る病ではなく、殊に松本では高度医療機器も充実しているので、多少時間はかかっても治癒の方向に向かうはずだと信じていたのですが、本当に残念なことです。昨年の6月には舞台保存会総会と舞台修理プロジェクトの解散式にもご出席いただき、懇親会の席にも着かれて、ご挨拶までいただいたのに、わずか半年余りで他界とは、未だに信じられない思いです。

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(第3回舞台サミット風景 まつもと市民芸術館にて)

私が初めて大藏さんを見知ったのは、平成16年6月にまつもと市民芸術館で行われた第3回舞台サミット・飯田町1丁目舞台の改修解体実演式の時だと思います。

飯田町1丁目舞台は松本深志舞台保存会の新しい修復プログラムの第1号として行われ、新築成ったばかりの市民芸術館の舞台上で、解体が行われました。舞台保存会や町会関係者の見守る中で、舞台は一つ一つの部材にバラされてゆくのですが、大藏さんはその過程を解り易く解説したり、学者先生や作業をする大工さん、また町会の人たちを舞台上に招いてインタビューをして解体作業に関心を集中させる、所謂コーディネーターの役を演じられました。大切な文化財の舞台とはいえ、見ているだけでは素人には退屈な作業ですが、大藏さんの仕切りでステージも観覧席も淀みがなく、解体作業とサミットが一体となって進みました。

あの大藏という人は大したものだなぁ、と感心して見ていたのを覚えています。もっとも、大藏さんはかつて松本JCの会長もなさった方ですから、この類の切り盛りはお手の物で、どうということもなかったのでしょうが。そうは言っても見事な進行でした。

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(舞台サミット風景 ステージの奈落を使って舞台を解体した)

このサミット・舞台修復が契機となって松本深志舞台保存会の修復事業組織として『舞台修理審査委員会』と『舞台修理プロジェクトチーム』が組織され、本格的な修復事業が始まります。大藏さんはこの修復チームの事務局長として極めて重要な役割を負っていただきました。その仕事というのは、舞台町会、松本市、職人さんたち、そして舞台保存会の間を調整し、修復を軌道に乗せることです。これをしないと修復は始まりません。それも一台二台ではありません。十数台全部です。一台終わればすぐ次。およそ10年間、まさに八面六臂の如く。本当に大変だったと思います。

そのことについては以前にも詳述しましたので繰り返しませんが、本来何の縁もゆかりもない保存会の事業に肩入れし、時間と労力と様々な気遣いまでして尽くすというのは、実に尊いことで、まったく頭の下がる思いです。(舞台保存会だより97

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(舞台修理審査委員会にて)

大藏さんは何度も、あの人なつこい笑顔でぼやくように語っていました。

『…俺はねぇ、あの日(平成15年10月2日)飯田町の早田さんから神道祭に舞台を見に来いって誘われたんだけど、行かなきゃいいものをノコノコ出かけちゃってね。舞台を見た後で「おきな堂」に連れて行かれて、カレーをご馳走になったのが運の尽きだったね。そのまま舞台修理プロジェクトの事務局長に据えられちゃってセ。…』

この平成15年10月2日は、まさに舞台修理プロジェクトが発足した日で、舞台保存会にとって重要な日となりました。実際に女鳥羽川沿いの「おきな堂」2階で、舞台保存会役員一同カレーを食べながら組織が立ち上がったようです。

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早田覚弥さんと大蔵さん)

当時、博労町舞台に続き本町3丁目舞台が修復の最中で、修復事業自体は始まっていたのですが、舞台保存会事務局長の早田覚弥さんは現状の修復方法に不満があり、次に自分の町会の飯田町1丁目舞台の修復を予定していたこともあって、新しい修理方法、文化財としての高度な修復の在り方を模索していました。そこで建築会社を経営して業界に精通し、松本市の教育委員を委嘱されて文化財行政ともつながりのある大藏治さんに目を付け、プロジェクトに引き込んだもののようです。

ただ、大藏さんも強引に巻き込まれたと語っていましたが、プロジェクトの仕組みづくりとその肉付けは大藏さんの頭脳から出ていたように思われます。例えば修復作業の監修者に信州大学の土本先生と古民家再生の降幡廣信先生を配し、建築方面の指導を万全に固めたことや、教育委員会も組織に入れこむなど、早田さんを始め舞台保存会では思い付かないことですから、これは大藏さんの発案でしょう。

平成の舞台修復事業は大藏さんのプランに乗って進んだことになります。

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(土本先生と降幡先生)

大藏さんはどうも最初の一台、飯田町1丁目舞台の修復だけ片をつけて、あとは保存会に任せるつもりだったようでした。しかし、結局最後まで付き合うことになります。保存会副会長だった故大野貞夫さんの言葉が重く堪えた、と言っていました。

『やい大藏ちゃ、舞台は文化財だでな。松本城と同じ松本の文化だで。修理とは言ってもそこら辺の家を建てるのとは訳が違うだ。これは文化財として後世にまで伝えていかなきゃいけんだでな。そのことを解って修理してくりや。』

多くの方はご存知でしょうが、大藏さんは木造を主とした建築会社の社長さんで、(近年は会長さんでしたが)その気になれば舞台の修復も自分の会社の仕事としてできたのではないかと思います。しかし、それはしませんでした。仕事は宮大工として腕のいい棟梁の工務店に委ね、自分は最後まで裏方の調整役に徹しました。

実際のところ舞台修復という仕事は、営業としてそれほど魅力のある仕事ではなかったと思いますが、それにしても中小企業を経営する社長さんが、社業を差し措いて、手間ばかりで稼ぎにもならない調整仕事に駆け回るとは、なかなかできることではありません。志を大切にされる方だったと思います。

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(舞台修理審査委員会で司会する大藏さん)

大藏さんはスポーツマンらしい褐色の肌色と、常に絶やさない笑顔が印象的でした。服装は紺のジャケットと綿パンツが好みで、スーツ姿はあまり記憶がありません。面識を得た頃、白いランチア・インテグラーレに乗って来られ、松本の青年経営者にはこんなオシャレな人もいるんだ、と感心したものです。(当人は取引先の社長から強引に買わされたんだ、と笑顔でぼやいていましたが。)

一方で本業である木造建築には非常に真摯に取り組まれ、匠事の神事を尊びました。起工に当たり地鎮祭を行うのは当然ながら、その際には必ず鬼門柱を建て、儀式からきちんと本道を貫いていました。儀式を儀礼としてしか見ない現代にあっては並々ならぬことです。

私も神職であれば地鎮祭はずいぶん奉仕しましたが、現場で鬼門柱を書かされるのは大藏木工だけでした。依頼があると、他とは違う緊張感で神事に臨みました。

上棟祭では大藏さん自ら祝詞を上げ、施主には梁材に棟書きをさせていたそうです。そうしたことは昔は必ず行われており、古い建物を解体するとその標が顕われますが、それを続ける人というのは、職の中に神を見出している人なのでしょう。

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(舞台竣工風景 これは本町2丁目舞台)

大藏さんに最後に会ったのは、昨年の夏でした。『松本深志舞台調査図面集』が出来上がり、それを届けに上がった時です。(舞台保存会だより100

事前に電話でアポを取ると、会社にいるとのこと。8月の初めの熱くなりそうな日で、体調も気になりますので午前中早い時間に伺いました。

大藏さんは社屋の中二階のような、社員とは少し離れた場所に執務スペースを設けており、そこに迎えてくれました。『図面集』を渡すと、大変喜んで撫でるように触り、ページをめくりました。

『小林さん、よく仕上げてくれたね。これはいいよ。修復の記念としてはもちろんだけど、今後もし何かあってもこれがあれば舞台を再生できるからね。』

舞台の修理方法を巡っては、大藏さんと対立し、激しく意見を交わしたこともありました。厳しい表情の大藏さんもよく知っています。しかし、舞台修理報告書・図面集の作成は、我々にとって共通の念願でしたから、大藏さんの感動は痛いほどよくわかりました。

この図面集の完成について、誰がと言って大藏さんが一番喜んでくれたと思います。苦労したことが形に成るということは、本当に嬉しいものです。

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(舞台修理審査委員会風景)

病み上がりですので、あまり長居をしたくなかったのですが、大藏さんは気分が良かったらしく、あれこれと2時間ほども話をしました。病気のことも話されました。

幸い検査で早期に癌が見つかったので、陽子線など最新の医療にかかることができ、ほぼ主要な部分は克服できたとのこと。ただ、それでも一部に癌のカケラのようなものが残っているので、それは引き続き治療を続け、時間をかけて潰していかなければならない、と語っていました。

『まあ、舞台もそうだけど、病気とも気長に付き合っていかなきゃいけないようだね。徐々に徐々に良くしていくということらしい。』

癌のカケラは思ったより強靭だったらしく、結局大藏さんの命を奪いました。残念と言って尽くせませんが、それが定めであれば仕方ありません。

心から大藏さんのご冥福をお祈りいたします。